※キャラ崩壊注意




 菊の初恋は幼稚園時代まで遡る。外国のお人形のようにきらきらと輝く美しい
金髪はゆるく波打ってとても愛らしく、日焼けを知らないような白い肌に海や空の
色を閉じ込めたような青い瞳はまるで宝石のようだった。彼女は童話の世界から
抜け出してきたお姫様に違いない、菊はそう信じて王子様となるべく彼女を悪い
ものから守り抜こうと心に決めた。危険を遠ざけ、悪戯をしようとする悪ガキには
制裁を加えて幼いながらに必死にそれを貫こうとした。卒園に伴い彼女は外国人
であるご両親の母国へと帰ってしまったが、悪ガキ退治の際に負った額の古い
傷跡と共に大人になった今でもいい思い出として当時を思い出す。その彼女が
二十年ぶりに来日するらしい。菊に会いたいとあれからも勉強を続けたのだろう
あの頃よりずっと上達した日本語でエアメールが届いた。大人になった彼女は
きっと誰もが振り返る、はっとするような美人に成長しているに違いない。今更
不相応な王子様になろうとは思わないが、懐かしい記憶を共有する友人として
私も是非会いたいですと菊は返事を書いた。宛先はフランスだった。

 空港で彼女の名前を書いたボードを掲げて待っていた菊はそれらしい女性が
現れないことに不安を募らせていた。飛行機に何かトラブルが起きたとか、便に
乗り遅れたとか。念のため手紙には携帯電話の番号も付記しておいたが鳴る
様子はない。すると乗客の団体が絶える最後にひとりの異質な存在がヒールを
鳴らして登場して菊!と叫んだ。え、あ?と間抜けな顔を晒してしばらくのあいだ
何がどうなっているのか理解できないまま菊は凍りついて頭が真っ白になった。
随分と長い時間放心していた。その異質な存在がものすごい勢いで抱きついて
きて否応なく鼻から侵入する女物の香水の甘ったるい香りに酔いそうになった
頃にようやく脳が正常な働きを取り戻し、まず最初に思ったのはフランシスって
女の子の名前じゃなかったのかよ!ということだった。現れた思い出の姫君は
ヒゲの生えた男だったのだ。
「いやーん菊久しぶり〜!全然変わってない〜!」
 波打つ金髪に白い肌と青い瞳、レースやフリルやリボンが可愛らしいお姫様然
とした装いの彼女もまた二十年前と変わってはいなかったが、菊は元から勘違い
していたのだった。しかも、口調といい仕草といい見事にオカマっぽい。低い声が
独特の迫力を持ってロビーに響き渡って注目を集め、超密着したまま左右の頬に
何度もキスを受ける菊はとても目立っていた。それはもうハリウッドスター並に。
菊の情報処理能力は九割がた失われていたが、急いで移動したほうがいいと
いうことだけははっきりとわかった。た、滞在先はホテルですか?今日はゆっくり
休んだほうがと言いかけて知ったのはフランシスの滞在先は菊の実家だという
事実だ。菊の知らないところで彼女、ではなく彼の両親と今でも交流のある菊の
両親が密かに引き受けていたようだ。さらに日本に来た目的は単なる観光では
なく就職らしい。これからずっと日本に住むつもりだと。
「そ、そうですか、では、今後とも、よ、よろしく」
 油の切れた古い機械の動きでぎくしゃくと握手を交わそうとするとフランシスは
よろしくねえ〜!と裏声で再度ハグとキスをしてきた。初恋のお姫様は男だった、
男な上にオカマだった、そして初恋のオカマと同じ屋根の下に住むことになった、
なおかつオカマは今でも菊が好き、これだけで菊は人生終わったような気持ちに
なって、せめてヒゲは剃れよと心の中で思っていた。

 菊の悪夢の日々はそれから始まった。毎朝目覚めるとレースの下着にピンクの
若干透けているネグリジェ姿のフランシスが知らないうちに隣で眠っているのだ。
嫁入り前の娘がそんな真似をするのはいただけないと説教すべきなのか、日本
では同性の友人同士はそんな風に一緒に寝たりはしないと説明すべきなのか、
どうすればいいのかさっぱりわからない。それにしても金色の胸毛がまばゆい。
菊の家族は昔と変わらずフランシスちゃんと呼んでいつのまにか本田家に溶け
込んで菊ひとりがこの状況に戸惑っている。
「菊はあたしのこと嫌い?」
「いや、嫌い、じゃない、です、よ、はい」
「やっだあフランシス嬉しい〜!」
 毎日繰り返すやりとりに嘘は言っていないけれど必ず心にダメージを負うのは
どうすればと思いながらも菊はキスをおとなしく受け入れている。休日は二人で
出かけることもあって突き刺さる周囲の視線が痛い。ガタイのいいヒゲ甘ロリと
平凡な日本人男性。混雑した道を通ろうとするとモーゼのごとく人波が割れる。
一度だけある意味物好きなめんどくさい輩に絡まれたことがあった。そんな格好
して可愛いとでも思ってんのかよこのクサレオカマ!とあまりにも心ない罵倒に
菊はぶち切れてDQNが何を偉そうに!この髪、自前なんですよ!金髪ゆるふわ
カール!可愛いじゃないですか!と怒鳴り返すと得体の知れない剣幕にチンピラ
どもは逃げ出した。そしてフランシスは菊が可愛いって言ってくれた!嬉しい〜!
とギブ!ギブ!とタップしたいほどきつく抱きしめられて今度こそ本当に周囲から
人気がなくなった。この街は二度と歩くまい、菊はそう思った。

 フランシスが来日して数週間が経ったある日、体調を崩して菊が会社から早退
するとちょうどフランシスも休みだったようで廊下でばったり遭遇した。けれどその
出で立ちに菊は驚く。いつもの乙女チックな服装ではなく、普通の青年というより
そのへんのメンズモデルも裸足で逃げ出すイケメンイケメンしたセンスのいい服を
まとっていたのだ。普段とのギャップに菊は空港以来の衝撃を受ける。
「わ!菊!なんで帰ってるんだよ!」
 口調もあのオカマっぽいものではない。今時の青年のものだ。え、あ?なに?
何が起きてるんですか?といったかんじに放心しているとフランシスはごめん!と
頭を下げた。どれに対してのごめんなのか菊にはわからず放心は続く。
「昔さ、菊が悪ガキから俺をかばって怪我までして、そんでも大人になったら嫁に
もらってくれるって言ってくれたのが忘れられなくてさ、でも俺男だし、どうすりゃ
いいんだよって悩んでさ、こうなったら性転換しかねえかなって思ったんだけど
男でいたかったし、まあ服脱がなきゃバレないかなってずっと、騙してたんだよ」
 いやいやいやものすごくバレバレでしたけど!絶対男だと思ってましたけど!
誰もがそう思ってましたけど!と思いつつも今まで見たことのないフランシスの
真剣な表情に菊はストレートにツッコミを入れることが出来ない。
「男ってバレたら菊に嫌われるかもしれないと思って、フランシスちゃんは絵本の
お姫様みたいですって菊が言ってたの思い出してああいうコスプレしてたけど、
バレたらもうだめだよな…ごめんな…もう俺のこと、嫌いになったよな…」
 目を伏せてがっくりと肩を落とすフランシスを見て、菊はそのとき初めて思い出
補正で美しく保存されていた記憶のフランシスではなく、今現在のフランシスと
向き合った気がした。彼は王子様に守ってもらうばかりのお姫様ではなかった。
二十年以上も昔の些細な言葉や約束を大切に抱えて、本来の自分を偽ってでも
一途に菊を想ってくれているひとりの男だった。
「…嫌いじゃ、ないですよ」
 ぽつりと落ちた菊の声にフランシスは顔を上げる。いつも楽しそうに笑っていた
彼が必死にしまいこんでいた苦しみが表情に現れている。上手下手はさておき、
演技を続けるのはどんなに辛い日々だったろう。
「確かに私は昔、お姫様のようなあなたが好きでした。でも、今の優しいあなたも
たぶん好き…だと思います」
 菊はゆっくり一語一語を自身確かめるように口にした。青い瞳が少しずつ潤み、
フランシスは喜びを堪えきれずにメルシ!と菊を抱きしめた。その後フランシスは
似合わない女装を止め、口調も本来の男っぽいものに変わって己を偽る必要も
なく再び本田家に溶け込んでいった。朝目覚めるとやはり隣で寝ていたり、時々
オカマ口調が混ざってしまう他は特に問題もなくひとつ屋根の下、改めて交際を
スタートすることになった。





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