※ログ105・ミスターマーメイドパロ続き




 反響するくわんくわんとという音と同時に突然頭の下のものがなくなって強かに
後頭部を打った痛みで菊は目を覚ました。声にならない呻きで苦痛を訴えながら
寝ぼけ眼を上に向ければ昨夜の強い拒絶感はそのままにラフな格好でシャワー
ルームの入り口に立ったアルフレッドが菊を睨みつけていた。俺の部屋に入って
くるなって言ったけどわざわざシャワールームで眠るなんてひどい当てつけだと
ますます腹を立てたアルフレッドは衝動的に菊が枕代わりにしていた洗面器を
蹴飛ばしたのだった。人魚という性質上、菊は単に水気のある場所が好きなだけ
だったのだがアルフレッドがそれを知る由もない。
「おとなしそうな顔して君も相当いい性格してるね!ああホントむかつく!」
 菊には誤解を解く術も謝罪をする術もない。どうしてこんなに嫌われているのか
さえわからないまま一方的に怒鳴られてしゅんとしていると、朝っぱらから何だと
崩れた寝巻きのアーサーが二階から下りてくる。アルフレッドがあの調子だった
ので弟の部屋以外ならどこでも好きなように使っても構わないからと言ったのは
アーサーだ。しかしアーサーもまさかシャワールームなんかを選ぶとは予想して
いなかった。アルフレッドと違ってそれを当てつけだと受け取らなかった代わりに
菊が盛大に遠慮した結果ではないかと思った。寝苦しくなかったかと問えば常時
携帯することになったメモ用紙に菊はペンで"いいえとても快適でした。ありがとう
ございます"と書く。偽りのない笑顔だった。それが本心だとすれば少々変わった
男という認識も持たねばなるまいと密かに横顔を見る。それはそれとしてともかく
朝食の時間だ。アーサーは喫茶店を開く準備もしなければならないということで
支度はアルフレッドと菊に任された。料理なんかしたことあるのかい?と馬鹿に
しきった口調にも菊はふるふると首を横に振る。本当なら料理は得意だったが、
なんせ人間の世界の料理など見たことも聞いたこともないのだ。アルフレッドは
得意げに簡単なサラダとスープとミートオムレツの作り方を説明し、最初のほう
だけ実演して菊が器用なことに気づくとじょーずじょーず残りはひとりでも出来る
よね?と心のこもっていない褒め言葉を残してキッチンを去り、あとは朝のテレビ
アニメに夢中になった。振り返ることもない冷たい背中をチラチラと覗いては私、
嫌われてるんですねと強く実感して菊はひたすら落ち込んだ。人魚の世界でも
こうした不和がまったくないわけではない、けれどこれほど直球にあからさまな
嫌悪をぶつけられて平気でいられるほどの図太い神経を菊は持っていなかった。
みじん切りにした玉ねぎも相まって潤んだ目から自分の意思とは無関係に涙が
零れて止まらない。こんな食材を扱うのは初めてだ。目が痛い、でも目だけでは
ない。自分の浅はかさが招いた現状ずべてが痛くて情けない。何よりも普段は
仮面をつけて上手に感情を操るアーサーの素顔、濁った瞳、翳った表情。菊は
アーサーのことを何も知らなかった。何も出来るはずがなかった。こんな思いを
するぐらいならいっそ人間の世界など来なければよかった。堪え切れなくなって
朝食の支度をひと通り整えると菊は逃げるように飛び出した。店のすぐ前には
群青の海が広がっている。浜に下りる階段に腰を下ろして果てしない水平線を
見つめた。人魚の海ほど澄んでいない、それでも海は菊の生まれ故郷だった。
引いては寄せる波音は子守唄のように優しい。帰りたい、けど帰れない。次の
満月はひと月も先だ。それにまだ心の奥では諦めていない。アーサーの美しい
緑の瞳が輝きを取り戻すのを。どうせ帰れないならその日まで耐えるしかない。
そうすれば何か自分にも出来ることが見つかるかもしれないではないか。そうと
決めたらいちいち落ち込んでなんかいられない。濡れた目元をごしごしと擦ると
落ちたしずくがコンクリートでカツンと音を立てていた。その頃、菊がいきなり駆け
出したので何かあったのかとキッチンを覗いたアルフレッドはちょっときつく当たり
すぎたかなと少しだけ反省していた。ふと気づけばまな板の上にキラキラした白く
丸いものがいくつか散らばっている。ひとつを手にとって見るとそれは真珠によく
似ていたが、それほど高価なものがこんなキッチンに転がっているはずもない。
アルフレッドはあまり深く考え込むタイプではなかったのでどうでもいいやと全部
ゴミ箱に捨てた。涙も気持ちも落ち着いた菊が戻ってくる頃にはアーサーも店の
準備を終えて朝食となる。わずかに赤い菊の目に気づいてどうかしたのか?と
声をかける。菊は何でもないとばかりに曖昧に笑って首を横に振った。





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