ベールヴァルドと菊は今、同じ部屋にいながら冷戦状態にあった。菊は背中を
向けたまま口を開こうともしない上にベールヴァルドも話し上手とは言えないので
会話が絶えて随分と経つ。強い拒絶を乗せた空気は重苦しく、この状態が長く
続けばそのうち窒息して死んでしまうような、大袈裟な予感さえベールヴァルド
にはある。きっかけはほんの些細な意見の食い違いだった。些細すぎてどんな
意見がどう食い違ったのか忘れてしまったぐらいどうでもいいはずのことだった。
こうなったらどちらが正しいなんて下らないことは忘れて何とかしなくてはと思う
けれど、原因も覚えていないのにただ謝ったらそれでいいというのは何か違う。
なじょしたらいいんだべと心の内で途方に暮れて部屋の隅、距離を取って座る
菊の体育座りの後姿をじっと見る。頑なな背中は私の陣地に入ってきたら絶交
しますからね!とアピールされているかのようで傍目には子供の喧嘩のように
見えてもこれ以上菊の機嫌を損ねる真似はしたくないベールヴァルドにとっては
重要な防衛ラインだ。勃発は昼前だったのにいつのまにか日も暮れる時間帯。
オレンジ色の陽光は次第に深い群青に染められていく。電灯をつけるタイミング
にも迷っている。夕食の支度もそろそろ始めないといけない。今日の夕食は菊が
作る予定だったが自分が作ったっていい。済んだら風呂掃除トイレ掃除でもして、
そうしたらいくらか機嫌が直るかもしれない。それでもだめなら今晩は寝床を別に
しても、でも困った、この背でソファで寝るのはかなり厳しい。だけどしょうがない。
とにかく早く仲直りしなければいけない。いつまでもこんな静寂が続いたら真冬の
地吹雪に取り残されたみたいに凍え死んでしまうに違いない。ベールヴァルドが
深く重く思い悩む一方、菊は全然平気なのかと思うとそれはそれで寂しかった。
もう電灯をつけてしまおうと席を立つ間際、不意に菊が立ち上がった。ああ便所
かと思ったがその足は廊下ではなくソファで腕を組んだベールヴァルドのほうに
歩み寄ってくる。室内は薄暗くて表情はわからない。何をするつもりなんだろうと
無意識のうちにベールヴァルドは表情筋に力を込める。手を出したら触れられる
ほど接近したところで菊は両手を伸ばして顔の横の左右のつるに手をかけると
そのまま素早く丁寧にド近眼のベールヴァルドから眼鏡を奪ってしまった。やっと
数時間ぶりに菊の顔を見れると思ったのに何も見えやしない。何も見えねべやと
苦情を口にすると菊は見なくていいんですと強い口調で言ってド近眼にも表情が
はっきり見えるまで顔を近づけた。確かにコレをするときだけは眼鏡は邪魔者で、
どうせ目を閉じるのだから何かを見る必要はない。つまり、菊はキスをしてきた。
キスは朝夜とそれから随時、気まぐれに仕掛けてはいるが毎度恥ずかしがって
なかなか応じてくれない菊のほうからとなるとこれは本当に貴重なキスだ。菊は
眼鏡を返して、年寄りは頑固でこれだからだめなんですよねつい意固地になって
しまいましたごめんなさいと頭を下げる菊は久しぶりに見たように愛しい独特の
困り顔に似た笑顔だった。ベールヴァルドは戻ってきた眼鏡を自ら外し、キスには
キスで返事をする。少しばかり時間の早い、濃密なキスを。まさかそう来るとは
予想していなかった菊は慌ててそこそこにうまくかわして、ほらもうベールヴァルド
さんったら夕食作らないとよかったら手伝ってくださいなと抱擁から逃げ出した。
ベールヴァルドはその背をぼんやり見送る。なし崩しに仲直りの儀式的なものに
及んでしまいたかったけれど仕方がない。まあええがと零して、エプロンを探して
後を追った。夜はまだ長いのだ。今日の教訓、喧嘩は悲しくて寂しいものである、
しかしたまにはすべきである。何故なら仲直りのキスはとても甘く幸福なもので
あるから。





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