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※「わけあって男手ひとつで幼いアルフレッドを育てる菊。貧乏ながら二人で 仲睦まじく暮らし、大きくなるにつれて自分が菊と似ていないことに気づき俺は どこからきたの?と質問して菊を困らせることもありつつもアルフレッドは無事 中学生になり、なんとなく孤児院からきたんだろうなーと理解しはじめたころに 実はあなたにはお兄さんがいますと連れられてきたのがカークランド家。メイド とのあいだにアルフレッドを作った父親が亡くなって相続権をゲット。弟がいた ことも知らなかったアーサーとご対面。そこで菊たんがアーサーの家庭教師 だったことを知ってうだうだ」という夢が元になっています。 思い出すのはもう何年も前、同じアパートに住む一人暮らしのおじいさんが 誰にも看取られることなくひっそりと亡くなったときのこと。さみしいお葬式が 終わった夜に菊は言った。 「…私が死んだらアルはひとりぼっちになってしまいますね」 俺をアル坊と呼んでかわいがってくれた気のいいおじいさんだった。俺が悪さ しておやつ抜きの刑にあっているときなど菊に内緒で大福をよこしてくれたりも した。初めて身近な死に直面し、怯えもしたがいつか必ず訪れる死より、菊が 自分の前からいなくなるということがどんなにか恐ろしかっただろう。その夜は 怖くて眠れなかったことをよく覚えている。 「あなたはDNA調べたりとか、しないんだね」 パソコンに向かう兄を横目で捉えながらアルフレッドはつぶやいた。若い身の 上で亡き父の会社を継いだばかりのアーサーは忙しく、なかなか屋敷に帰って くることができなかった。ようやく取れた時間もこうして仕事からは免れられない。 目も合わせず大事な話をするのは菊相手なら考えられないことだ。体の動きに 揺れる金髪が目に入る。DNA検査をしなくても、菊とアーサーを並べたら十人中 十人がアーサーをアルフレッドの血縁者だと判断するだろう金髪は父譲りのもの だろうか。けれどほかに証拠らしいものは何もないのだからもっと疑ってかかって 然るべきだとアルフレッドは納得がいかなかった。なんせあのカークランド氏の 莫大な遺産の半分をどこの馬の骨とも知れぬ子供が受け継ごうとしているのだ。 まだ中学生といえどその重みはアルフレッドにも理解できる。拍子抜けしてしまう ほどあっさり受け入れられた事情を訝しみ、直接質問をぶつけてみればアーサー はじろりと鋭い視線を寄越した。 「菊が嘘をつくはずがないからな」 そう言い切ってアーサーはまた仕事に戻ってしまう。不快さを滲ませた睨みに、 息子のお前が菊を信じないのか?と問われているような気がした。随分と自分の 親は信頼されているようだとアルフレッドは感心したが、胸のうちに湧いたのは 誇らしさよりも嫉妬だった。この兄がまだ自分と同じ年だった頃、家庭教師を していたという菊。一介の家庭教師にしては破格の信頼だ。これほどの信頼を 寄せられるまで、兄と菊とのあいだに一体何があったのか。菊には今まで多くを 困ったような笑みでごまかされてきたものの、もはやこの件で隠し事はしない だろうという確信がある。尋ねればすべてを教えてくれるはずだ。だが自分の 知らない菊の話を、今更聞かされるのはおもしろくなかった。ましてや他人の、 兄の口から聞くのはもっと嫌だ。 「お前こそ、もっと恨み言とか聞かされるんじゃないかと思ったが」 無関心を貫くのかと思えば、意外にもアーサーの方からも質問があった。しかし その言葉にアルフレッドは何を言ってるんだろうと不思議に思った。彼らの存在を 知らずに育ってきたのだから恨みを抱きようもなかった。そもそも貧乏こそして いたが、菊から受けた愛情は補って余るほどだ。恨みがましい気持ちなどひとつ もない。俺の菊だよ、俺にそんな思いさせるわけないだろと自慢げに言ってやり アルフレッドはわずかばかり悔しさを晴らした。アーサーは押し黙る。そう、俺の 菊だとアルフレッドは思う。今までの生活で良かった。何も不足はなかった。 財産も肉親もいらない。足りないものを何より痛切に感じたのはたくさんのものを 得た今だった。帰りたいよ菊。背表紙の分厚い本の壁に囲まれてやたら甘い ミルクティーに渋々口をつけていれば菊の淹れるコーヒーが恋しくて目の前が 霞んで見えた。砂糖もミルクもいらないよ、もう俺は大人だからね。そんなふうに 言えた日々が懐かしくてたまらない。目元をこすればこするほど視界はひどく なった。俺と同じで甘ったれだなと呆れ口調でティッシュ箱を投げつけられる まで、アルフレッドは溢れてくる鼻水をすすり続け、菊にいなくなったときの兄の 気持ちがほんの少しわかったような気がした。 |