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※ログ62・ミスターマーメイドパロ続き 「ハッ!いかにもアーサーの好きそうなかんじだよね」 アーサーに手を引かれるまま店に入ってきたびしょ濡れの見知らぬ男を、頭の てっぺんから爪先までしげしげと品定めした末にアルフレッドは鼻で笑って吐き 捨てた。菊自身は己のどこを見、どういう意図でそう言われたのかわからない。 どうしてこの青年がこんなに苛立っているのかも直前までその手の主と口論して いたことを知らない菊には推し量ることも出来なかった。アルフレッドからすれば 話し合いを途中で放棄された元凶が目の前にいることがそもそも気に食わない。 兄の過干渉が煩わしいのは確かなのに赤の他人に取り上げられるのも不快だ。 どんな思いで兄弟同士怒声をぶつけあっていたのか知りもしないくせに。当然 他人は知るわけがないのだ、こんなのはただの八つ当たりだ。わかっていても 制御出来ない感情がさらにアルフレッドを苛立たせる。それなのにアーサーは 見ず知らずの他人を今日から家に置くというのだ。廃れた港町とはいえ喫茶店と 住まいを兼ねたこの場所を手に入れるのにアーサーがどれだけ苦労したのか アルフレッドが何も知らないはずもない。兄弟で生きていくために、長いあいだ 引き離されていた時間と距離を埋めるために、一体どれだけ。アルフレッドは 不可侵である我が家に土足で踏み込もうとしている男が許せなかった。いくら アーサーがこいつ口も利けないし足も悪いみたいなんだ、行くところもないみたい だからと弁護したところでそんなことはアルフレッドには関係ない。異物はどんな ものであっても異物に過ぎない。ただでさえ最近は衝突が絶えないのに、微妙な バランスの上に成り立っている関係をこれ以上壊されたくないのに。睨みつけた 菊は何もわからずきょとんとするばかりでアルフレッドはもう我慢ならなかった。 俺の部屋に入ってきたら承知しないからな!と大声で厳しい言葉を叩きつけると バタンと大きな音を立て居住スペースに続くドアが閉まる。足早に自室に駆ける 足音が強く菊を拒んでいた。人間や人間の世界についてほとんど無知である 菊にもその拒絶ははっきりとわかる。 「…まあ、そう気にすんな。あいつは弟だけど、居候みたいなモンだから」 アルフレッドがいなくなったドアを一瞥し、苦笑いを浮かべたアーサーは慰める ように言う。嘘つきだ、と菊は思った。本当はきっと居候みたいなものと簡単に 説明を終えてしまえる関係ではないのだ。ふとした拍子に現れる苦渋の表情が 何より雄弁に物語っている。菊はアーサーのことを何も知らなかった。弟がいる ことも、時々海底に落ちてくるガラスの欠片よりずっとずっと美しい緑玉の瞳を 曇らせた"何か"も、満月の映る海で漂っていた原因も、まだ名前さえも。何も 知らない。なのにもう一度だけ、一目でいいから会いたいと、それだけでこんな 遠くまで来てしまった。あまつさえ帰り道を失って、ルートヴィッヒに知られたら なんと言われるやら。みっともない。恥ずかしい。けれど、どうせ次の満月まで 帰れないならせめて、その瞳が輝きを宿すのを見届けられたら。声を出せない のに身振り手振りも少ない菊はよくしゃべり動作もいちいち大袈裟な弟に慣れた アーサーからすると何か不満があってそうしているように感じてどうにも居心地が 悪かった。戸棚を漁ってメモ帳を見つけ出すと、筆談は出来るかと尋ねる。菊は 少しの文字なら勉強してきていたのでこくこくと頷く。 「俺はアーサーだ、お前は?」 握らされたペンを紙の上で慎重に滑らせる。拙い文字で書きかけたところで アーサーは菊?と先を読んだかのようにつぶやいた。菊は驚いてアーサーを 見上げる。名乗った覚えはない、声は魔法使いに奪われてしまったのだから。 「ああいや、どこかで聞いたような気がして」 己の突飛な発言にどこか恥じ入るようにアーサーは視線を逸らす。菊はあの 夜のことを鮮明に思い出していた。ここらの重い闇を飲み込んだような汚れた 海ではなく、どこまでも青く透き通る温かな人魚の海でのこと。満月の明かりを 浴びてキラキラ光る白銀の砂と、極彩色の魚たち、豊かな珊瑚礁、人間の海から 流れついたたくさんの珍しいもの。それから、アーサー。 『放っておけ、菊』 ルートヴィッヒは好奇心の強い菊が人間に興味を持つのを殊更警戒していた。 死体でないなら尚更悪い。人間は恐ろしい生き物だからとしつこいぐらい忠告を 繰り返していたから、つい黙って出てきてしまった。あの人の心配性は筋金入り なのだ。ともかく、あのときアーサーは確かに気を失っていた。そのおかげで水を 飲まずに済んだ、だから、会話を聞いていたなんてあり得ない。そんな不思議な ことがあるわけない、だけど。だけどそんな奇跡みたいなことが。ざあざあと雨は 降り続いている。朝まで止みそうにない。このままじゃ帰れないのに、帰れない ことが嬉しい自分がいる。ずきんずきんと人間の足がひどく痛む。ごめんなさい、 次の満月まで、次の満月まで許してくださいと過ちを責め立てる足をなだめる。 やがて雨で冷えただろうとアーサーが淹れてくれた紅茶はじんわり心に入って くるような温かさで足の痛みを忘れさせ、代わりに胸の奥をじくじく痛ませるの だった。 |