※犬化、死にネタ注意!
※ハチ公パロ




 犬が人間の言葉を理解しているというのは誤解で、理解しているのは人間の
感情であり、飼い主の声や表情、動作、状況や雰囲気からそれを汲み取って
いるだけだ、それでも人間の言葉で話しかけるのは彼が家族だからだ。…とは
弟の持論で、犬にとってそれが正しいかどうかなんて俺は知らない。でも言葉が
わからないというのは本当ではないかと思う。実際キクはこいつや俺の世界が
ひっくり返る事実を告げたのにちっとも理解してない顔をして俺の頬をぺろぺろ
舐めてくるだけだ。俺の頬はしょっぱくてうまくないだろ?そんなに舐めたって
涙がそう簡単に止まるわけがない。キクは俺にあんまり懐かない可愛くない犬
だけど何でこういうときだけは察してくれるのか。そうだよ、俺は寂しがってる。
ひとりは悲しくて寂しいんだ、だからそばにいてほしい。せめてお前だけでも。

 犬を飼いたいとちょくちょく零していた弟が真っ黒で小さい巻き尾の犬を抱いて
帰ってきたとき、もっとカッコイイ犬はいなかったのかよと悪態を吐いた俺だって
本当はこっそり喜んでいたのに、そいつは弟をまず主人と認識したらしい。先を
越された悔しさもあってめいっぱい可愛がってやろうとするとそいつはなんだか
迷惑そうにする。犬種として元々の性質と、個体の性格によるものだろうと弟は
苦笑した。そいつはシバイヌという日本の犬だった。血統書はなかったがおそらく
純血種か、もしくは限りなくそれに近い特徴をしているそうだ。あいにくそれが
真実かどうか確かめる手段がない。何しろ元の飼い主は留置所の中にいる。
そもそも飼い主と呼ぶのも相応しくない。そいつは悪徳業者から警察によって
救出されたのだ。業者はただでさえ小型種であるシバイヌを成長しても子犬の
ようで愛らしいなどの理由で人気のある、マメシバというさらに小さな犬に偽装
するため生まれたときから餌の量を極限まで減らして成長を妨げるという非道な
育てられ方をしていたのだそうだ。それが露見して業者は逮捕され、愛護団体に
所属する知人から弟はそいつを頼まれたという。日本の犬なんだから日本っぽい
名前をつけてやろうぜと相談して俺たちはそいつにキクと名づけた。キクは当然
何がなんだかわからないといったかんじでいくら呼んでも全然反応しなかったが
何度も繰り返し呼んでいるうち自分を呼んでいると理解したようだ。遠くからでも
弟がキクと呼べば嬉しそうに尻尾を振って駆けていく。俺が呼ぶとどこか渋々と
いった様子でトロトロ歩いてくるのは気に食わないけど、まあ来るだけマシだと
いうことにした。キクは賢い犬だが育った環境のせいか食が細く、半年経っても
一年経っても、犬にしてみたら五年とか十年とかそんな月日を経てもあんまり
サイズが変わらなかった。俺や弟はそれが心配になってもっといっぱい食って
いいんだといつも多めにメシを与えていたがやはり残してしまい、ごめんなさいと
言わんばかりに弱々しい鳴き声をあげるものだから無理に食べさせようとする
のは止めにした。その代わり何か上手に出来たら褒めてやるついでにおやつを
多めにやることにした。おかげでキクは色んなことを覚えて、別室の新聞だって
脱ぎ捨てた靴下だってちゃんと取ってこれた。キクは我が家の、弟の自慢の犬
だった。小さいナリでもいっぱしに番犬の役割を担ってるし、一度いなくなって
大騒ぎしたらキクは弟が利用してる駅の前に行儀よく座っていたらしい。アホ
みたいに騒いだ俺がバカみたいだろうが。小さい駅だったもんで犬がいたのは
駅員も気づいてたんだが、あまりに動かないもんだからよく出来た置物かそこに
つながれてるんだと思ってたとか。そりゃ犬が自由意志で主人の出迎えに来る
なんて普通は思わない。弟が改札を出てきた瞬間おかえりなさいでも言うように
キャンと吠えて、それで弟はキクが自分の帰りをずっと待っていたことに気づいて
愛しくてたまらなくなってスーツが汚れるなんてどうでもよくなって人目も憚らず
随分長いこと抱きしめてしまったとバカがつくほど生真面目で表情の硬い弟が
ニッコニコしながら語るのはなんか面白くなかった。キクの出迎えがよっぽど気に
入ったみたいで、弟はそれから毎日毎日上機嫌で庭から姿を消したキクと一緒に
帰ってくる。俺の迎えには来てくれないのに。俺だって世話してるのにこの差は
何だ。主人に対して非常に忠実ってのも厄介なもんだ。たまには俺にも尽くして
くれたっていいだろうに。かといって俺を嫌ってるわけでもないのが複雑だ。俺の
何が悪いんだろと相談すると兄さんは構いすぎなんだ、キクはどうしたらいいのか
戸惑っていると言うのだ。俺はそうかあ?と胡乱げに聞き返した。可愛いものは
構い倒したいのが普通だろ。きちんとブラッシングした毛並みがボッサボサに
なるぐらい撫で回したいのが普通だろ。弟はまた苦笑いだ。これが"構いすぎ"
なんだと。せっかくの愛情表現に戸惑うなんて生意気だ。腹が立ったので何か
察して逃げるキクを追い回してブラッシングしてはボッサボサに、ボッサボサに
してはブラッシングと意味不明な八つ当たりをしてたらキュウンと消え入りそうな
声で鳴いて弟に助けを求めて縋る。困ってるキクはそれはそれで可愛かったが
弟に怒られたのは言うまでもない。仕方ないだろ、これが俺の性格なんだから。
その後も弟と、弟に懐いてるキクと、いまいち懐かれない俺、という幸せな生活は
平穏に続いた。それがある日突然、壊れてしまった。弟は帰ってこない。二度と
帰ってこない。キクはそれでも毎日毎日夕方になると駅の前に座って弟の帰りを
待っている。俺は何度も何度も言い聞かせた。弟は、お前の主人はもう帰っては
来ないんだ、弟は死んだんだ、仕事先で事故に遭って、葬式もあげて、冷たい
墓の下に眠ってるんだ、だから待ってたって帰って来ない、お前は待たなくても
いいんだって何度も説明したのに、雨の日も雪の日も毎日毎日駅の前にいる。
力ずくで家に連れ帰ると鍵のかかったドアを前足で必死に掻いて、今まで聞いた
こともない声で泣いてるみたいに開けてほしい開けてほしいって訴える。キクに
俺の言葉が通じないように、キクの言葉が俺に通じるわけもないのに不思議と
わかる。お願いだからドアを開けて下さい、駅に行かせて下さい、私のご主人を
迎えに行かせて下さい、だってルートヴィッヒさんは私が待ってるとすごく嬉しそう
なんですもん、私がいないときっとガッカリしちゃうから、お願いだからこのドアを
開けて下さい、お願いですから、お願いですから。聞き分けのいい犬だっただろう
お前は、聡い犬だっただろうお前は、なのに俺のことは少しも理解してくれない。
俺は小さい小さいキクを抱きしめて泣いた。いい年して子供みたいにみっともなく
泣いた。突然の大切な愛しい弟の死と、それを理解出来ないキク。ただ悲しくて
寂しくて泣いた。そしたらキクは慰めるように俺の頬をぺろぺろと舐めて、以来
キクが駅に向かうことはなくなった。主人の死を理解したのか、それともただ俺の
気持ちを汲んでくれたのか、俺には知る由もない。こうして俺とキクの二人きりの
生活が始まった。キクは弟がいなくなる前の距離感が嘘のように俺にべったりに
なった。俺が弟に倣って適度な構い方を心がけるようになったからか、あるいは
キクや俺がまだ寂しさに慣れていなかったせいかもしれない。時々思い出した
ようにボッサボサになるまで撫でることもあるけど、キクは前と違って仕方ない人
だなあというかんじであからさまに嫌がる素振りは見せなくなった。俺は第二の
主人になれたんだろうか。遠くから呼ぶとのたのた歩いてくる態度は相変わらず
だったが、キクのそういう態度はいつのまにか嫌じゃなくなった。そのまま俺の
足元に横たわるキクのピンと立った三角耳の付け根を撫でると気持ちよさそうに
ウトウトするのを見るのが好きだった。…そのキクが死んだのは弟が死んでから
一年ほど経った頃だ。先日の健康診断でも獣医から何も聞いてなかったのに、
弟と同じで何の前触れもなく、玄関先で俺の帰りを待ってたみたいに、まるで
ただ眠ってるみたいに。俺は今でも犬が好きだけど、二度と犬を飼うことはないと
思う。もし俺がどこかでよそで死んだとき、キクみたいなのが家や駅で俺の帰りを
待っていたらと考えるとおちおち死ぬことも出来やしない。だから俺はもう犬は
飼わない。何か飼うなら鳥がいい。主人とか家族とかそんなのに縛られない、
いっそ薄情なぐらい自由な翼でどこにだって行ける鳥だったらいなくなったって
お互い諦めがつくだろう。キクは今、弟のすぐ隣で眠ってる。迎えに行かなくても
お前の主人は常にそばにいるんだから、もう寂しくなんかないだろ?





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