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呼び出された体育館に続く渡り廊下から戻ってくると、人目の多い廊下だと いうのにギルは相変わらず無駄に大きい声で小学生でも呆れる言いがかりを つけてエリザベータさんに突っかかっている最中だった。クラスのみんなは最早 日常茶飯事と化したそれを誰も気にすることもなくああまたかといった反応で 迷惑な騒音を聞き流してくれている。仲裁に入ったら入ったでますます機嫌を 損ねるし、どうしたものかと悩んでいるとエリザベータさんは持っていたハード カバーの書籍の角をギルの頭に思いきり振り下ろし、いつものように己の力で 以って状況を打開した。実にたくましい女性である。足音も雄々しくずんずんと 立ち去る間際こちらに気づいて、あんなバカの幼馴染なんてやめちゃいなさい それが菊ちゃんのためよじゃあまたね菊ちゃんと一転明るい表情で手を振って 自分の教室のほうへ帰っていく。きっとローデリヒさんが待っているのだろう。 痛みにもんどりうつギルを往来の邪魔になるので仕方なく助け起こし、何だよ あの怪力女!かっわいくねー!ともし耳に入っていたら即引き返してもう一撃 食らわせるに違いない台詞を吐く懲りないバカをハイハイどうせ原因はあなたに あるんですからそろそろ学習してくださいねと慰めにもならないことを言ってうまく 怒りの矛先を変え、お前まであいつの味方なのかよ!と次々と出てくる文句は ハイハイと右から左に受け流してポイだ。いちいち聞いてたらキリがない。だいぶ 落ち着いたところで貴重な昼休みに渡り廊下くんだりまで呼び出された理由で ある一通の手紙を依頼通り本人に手渡す。ふぇ?と素っ頓狂な声を出すギルに 可愛い子でしたよ付き合ってみたらどうですかと無責任に勧めてチラリと反応を 窺う。こんな男のどこがいいのか、見た目は好みの問題としても中身はただの 大バカなのにギルは腹が立つほど意外にモテるのだ。大抵は毎日の不毛な 争いを知らない別学年の女子で、その取り次ぎを幼馴染というだけで私に頼む のはいい加減にやめてほしい。だってギルにはもう好きな人がいるのだから。 あんなでも優しいところもあるギルはラブレターを読まずに捨てるなんてことは しない。ひと通り目を通して、それからきちんと断りの返事を直接伝えるのが ギルなりの誠意だ。おそらく今回も同じ方法を取るだろう。その優しさをちゃんと 好きな人に向けてあげればいいのにと思わずにいられない。ギルの好きな人、 エリザベータさんに。だけどエリザベータさんにも好きな人がいるのだ。ギルの 想いは報われないことをギルも私も知っている。だったら別の子と付き合えば いい。いつかはそんな苦い片思いなんてどうでもよくなる日が来るかもしれない のに。私の片思いもそんな風に、初めからなかったように早く消えてなくなれば いいのに。 すぐ終わるから待ってろ一緒に帰ろうぜと言われてバカみたいに校門で待って いる私は本物のバカだった。ギルがどんな言葉を使って断るのか私は知らない。 ギルに振られる女の子に自分を重ねてしまって落ち込むのがわかっているので 知りたいとも思わない。我ながら女々しくて情けない限りだ。十分ほどでギルが 慌てて走ってきた。教室にいないから先に帰ったと思ったじゃねーかよ!とまた 怒鳴られる。あなたを置いて帰るわけないでしょうと言うとギルはそーかそーかと 簡単に機嫌をよくするけれど、置いて帰るとふて腐れてめんどくさいんですよと 付け加えると一気に急降下。ケッ!お前は昔からそういうやつだよ!と帰り道の 十数分の道のりを延々幼稚園以前からの古い思い出ほじくり返して愚痴愚痴 文句を言われ続ける。よくもまあそんなに覚えているものだ。正直余計なところに 記憶力を使っているとしか言いようがない。ギルはたまに私が覚えていないこと まで言い出すことがある。落とし穴を作って先生をはめようとしたら何も知らずに 落ちた私が泣く、それをギルがいじめたと勘違いした先生がギルを叱る、さらに 先生を介してギルのお母さんに知られてげんこつを食らわせられたそうだ。曰く お前は俺を散々バカだって言うけど万が一俺がバカだとしたらお前のせいだぞ、 あんときのげんこつで俺の優秀な頭が故障したんだ、だからお前のせいだオイ 聞いてるか。知りませんよ全然覚えてません大体あなたが落とし穴作ったのが 悪いんでしょうそれにあなたがバカなのはもっと前からですと突き放した頃には 自宅の前に着いている。ギルの家は隣だ。バーカバーカ!この冷血チビ!お前 なんか幼馴染じゃねー!と子供じみたあかんべえをしてギルは家の中に入って いった。脱幼馴染宣言は今まで何度あったか。翌日には本人がケロリと忘れて いるのだからバカを通り越した超絶バカだ。どうしてこんな男を好きなのか私にも 理解出来ない。ギルの話が本当なら、きっとその落とし穴に落ちた衝撃で私の 頭も故障してしまったのだ。そうじゃなきゃ私は今日ギルに振られた女の子の ような可愛い子を好きになっているはずだ。あなたこそ責任取ってくださいこの バカ男と言えたらいいのに、言えるわけない。 中学生活もまもなく終わりを迎える。エリザベータさんは遠くの名門女子校に 進むらしい。ローデリヒさんはその近くの進学校に進むそうだ。ギルと私は自宅 から自転車で通える普通の高校に進む。進路指導の先生は何度も別の大学 受験に適した学校を勧めてくれたけれど、あのバカ男を放り出していくわけにも いかない。高校を卒業する頃には少しはまともになっているはずだ、お守り役 からもめでたく卒業できるだろうと希望的観測を持っているのだが果たしてあの バカがたった三年でどうにかなるものだろうか、不安だ。ともかく卒業式を翌日に 控えてギルはようやく告白する決意をしたらしい。夜遅く、珍しく神妙な顔をして 相談があると部屋に上がりこんだ。どうしたら気持ちが伝わるのか、俺なんかで 大丈夫か、これまであんな態度を取っておいて今更ウダウダ悩んでいるギルの 話を聞いているうち私はだんだんイライラしてきた。そんなにエリザベータさんが 好きなのか、どうしてエリザベータさんなのか。そんなの、私だってわかってる。 エリザベータさんはきれいで優しくて強くて欠点などひとつもない。男の私なんて 比べるべくもない。でも、でも私だって、私だってギルが好きなのに。 「…私にしておけばいいじゃないですか」 長年溜め込んだ感情は一度堰を切ってしまえば止まらなかった。所詮私は 男だし、どこにでもある平凡な顔だし、性格も悪いし、欠点ばかりだけど、ずっと あなたみたいなバカを好きだった物好きのバカなんです、何度諦めようとしても 諦められなかったあなたと同じどうしようもないバカなんです、なんで私に相談 なんかするんですか、ギルの鈍感バカ!そしたらギルが何度もバカバカ言うな バカ!とこめかみを拳でグリグリしてくるので私は冷静さを取り戻して、ついに 言ってしまったと絶望的な気持ちに突き落とされた。男に、しかも幼馴染に告白 されるなんて気持ち悪いだろうなとか、やっぱりあの子たちと同じように振られる 運命にあったんだろうなとか、もう今まで通り世話を焼くことも出来ないんだろうな とか、そんなことしか思い浮かばない。私はギルの顔を見れなかった。軽蔑の 目で見られることが恐ろしかった。なのに。 「どうしてもっと早くいわねーんだバカ菊!」 とギルが頭のてっぺんを拳でグリグリするのであれ?と思った。俺だってな、 昔からずっとお前が好きだったんだぞ!それはまったくの想定外だった。は? 何言ってんですかあなた、変なもの食べたんですか?ぐらいの顔はしていたかも しれない。するとバカみてーにボケっとしてないで早く気づけって!俺はお前が 好きだって言ってんだよ!と続ける。要するに告白はエリザベータさんにでは なく、私にするつもりだったのだそうだ。ああ畜生、明日さりげなくキメる予定が 狂っちまったじゃねーかお前のせいだバカ!といつものいちゃもんをつけてくる ギルが嬉しくて抑えられなくてバカみたいにクスクス笑いながら私のせいなら しょうがないですねえ責任取ってあげますよとどうしてもと言うので事前に第二 ボタンをもらってあげた。第二ボタンのない卒業式なんて変だと言っても誰かに 取られたらお前泣くだろと恥ずかしいことを言うのでそれぐらいで泣きませんよ バカですねえと本当は溢れそうな涙を必死で堪えて二人でバカバカ言い合った。 問題は高校三年間だ。何はともあれ付き合うことになったからにはあのバカと キスとかしなきゃいけないのかと思うとうんざりする。あんまり嫌じゃないのが 本当に嫌なのだ。どうせ私の繊細な心なんてバカギルには永遠にわからない だろうけど、これでもそれなりに覚悟だけはしているのだ。 |