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ではないと答える。姓が違うのは明らかである反面、二人が一緒にいるときの 親密な雰囲気は単に古い友人という枠を超えて家族的なものを強く感じさせた。 しかし本人たちを目の当たりにすれば耀が兄らしく振る舞おうとするのに対して、 菊のほうは極端にそれを拒んでいるように見える。兄離れだとか反抗期だとか、 そういったものともまた違う根本からの拒否だ。それが異なる印象を与えている。 ではどちらが真実か。あやふやものではなく答案用紙に正答を書くような確かな 事実を知りたいならば役所で調べるなり何なりすればいい。だが二人を特別気に 入っているイヴァンが知りたいのは本人がそのことをどう思っているかで、どうせ だったら直接その口から聞きたいのだ。 「で、どうなの?本当のところは?」 甘味処のテーブル越しに普段は爪の先ほども感情のこもっていない笑顔を晒す イヴァンはこういうときばかりは本当に楽しそうに笑う。厄介な男だと溶ける前に 手をつけたカキ氷を口に運びながら菊は内心で苦々しく思った。同じ質問を耀に ぶつけたところ、おめーには関わりのねーことあると取りつく島もなかったそうだ。 あの人はイヴァンさんを毛嫌いしているからなあとその場面を容易に想像出来る 菊もまた決して好きではなかったが、今日は暑いから何か冷たくて甘いものでも 食べたくない?奢ろうか?本田君は宇治金時好きだったよね?あとわらび餅に 水饅頭、何ならクリームあんみつもつけようか?と学校も終わった空腹時に餌を ぶら下げられるといつものように袖にするわけにもいかなくなった。それぞれの 味を脳裏に描いた時点でほんの少しなら付き合ってあげてもいいという気持ちに なるぐらいには耀ほどイヴァンのことを嫌ってはいなかった。とはいえ深く関わり すぎると面倒なことになることは承知の上だ。それで何を言い出すのかと思えば 案の定こんな質問だ。うんざりする。本当に他人の気分を害することにかけては 事欠かない男だと再認識した菊の表情も自然と渋いものになった。 「本当のことも何も、兄のように慕っている部分は否定しませんけど、耀さんは あなたも知っての通り赤の他人ですよ」 目の前に並ぶ好物を平らげながら菊は偽りなく答えた。実際耀と菊は家が近い というだけのまったくの他人で、年上で幼い頃から何かと世話を焼いてきた耀を 兄のように思っていなくもない、ただそれだけだ。イヴァンが面白がる要素はどこ にもない。本当にそれだけ?としつこく尋ねられてもそれだけですときっぱり切り 捨て、濃い緑色をした氷の山を崩し終えるとすでにバニラアイスの表面が液状化 しつつあるあんみつの器に手を伸ばす。つまんないねとイヴァンは蜂蜜入りだと いう菊からすれば眉を顰めてしまうような冷えた緑茶を飲んでいた。 「…僕はもっと、ただならぬ関係にあるんじゃないかと睨んでたんだけど?」 短い沈黙を置いたイヴァンは動揺を誘う物言いと人を馬鹿にしたまなざしで菊を 見下ろす。熱のないすみれ色の瞳は人の心の柔らかい部分を見透かして執拗に 嬲ることを好む残酷な猫の爪のように目を細めて笑む。おそらく今後何があっても イヴァンだけは好きになれそうもない。耀が頻繁に蛇蝎のごとく罵る気持ちもよく わかる。菊は寒天をすくいあげるのを止め、器の中を探るように木匙を動かして 何か口に含むと唐突にイヴァンの制服のネクタイをぐいと引き寄せた。さすがに それは予測外の行動だったらしい。わっと驚く声を無視して狙いすました開いた くちびるに菊は自分のくちびるを押しつけてすかさず舌を差し込んだ。イヴァンの 口に何やらころころと小さく丸いものが転がりこんでくる。すぐに離れた菊の顔は イヴァンを真似たような笑みをしていた。 「"ただならぬ関係"って、こういうことですか?」 それはイヴァンの予測と違わぬものだった。だが、菊が自分にもこんな大胆な ことをするとはまるで予想もしていなかった。呆然とするイヴァンの前で菊は再び あんみつを食べ進める。口内にある異物に何とはなしに歯を立てるとあんみつに 漏れなく入っている豆の味がした。ねえこれ僕あんまり好きじゃないんだけどと いう苦情に、菊は奇遇ですね私も苦手なんですよと口移しをしてまで押しつけた ことを何とも思わない口ぶりで応じる。イヴァンは菊のそういうところが特に好き だった。何を考えているのかわからない、嘘も真実もすべて曖昧でどろどろとした 黒いものが腹の底で渦巻いている。その奥にはさらに別のものが隠されていそう なのにまだ片鱗すらイヴァンにはつかめない。 「僕はたぶん君のことが好きなんだと思うなあ」 前触れのないイヴァンの告白に菊は迷惑ですと素っ気ない返事をして黙々と 平らげる。約束通り勘定を持ってくれるというので遠慮なく奢ってもらって菊は そのまま帰宅した。翌日登校すると甘味処での出来事を誰かが見ていたようで イヴァンと菊がキスしていたと噂になっていた。悪い意味でイヴァンが有名人な だけに地味に学校生活を送っている菊も否応なく話の槍玉に上がる。噂という ものは勝手に尾ひれがつくもので、二人は前から付き合っているだのイヴァンに 無理やり付き合わされているだの意外にあのイヴァンを菊が手懐けているだの、 噂をするほうは好き放題言ってくれた。露骨に真相を問われたときも菊は真実 しか答えない。 「確かにキスのようなことはしましたが、付き合ってはいません」 それでも菊本人が認めた事実は充分校内に波紋をもたらした。イヴァンにとって もうひとつ予想外だったのは学年が違っても耳に届いたであろうその噂に対して 耀が何の反応も見せなかったことだ。つまんないなあとイヴァンはぽつりと零す。 帰路の途中に耀の家がある。菊が二階の耀の部屋を見上げると窓の向こうに 耀が立っているのが見えた。すぐに室内に姿を消した耀は何も言わなかったが、 上がって来いと暗に命じているのは長年の付き合いでわかる。まだ早い時間で 家人はいない。一応礼儀として誰もいない空間にお邪魔しますと挨拶して耀の 部屋に向かうとドアを開くなり無言の威圧感が菊に圧し掛かった。耀は何かに つけて口うるさい男だ。でも本当に機嫌が悪いなときはいつもこうして黙り込む。 何が原因かなんて聞くまでもない。ひとまず部屋の隅に座って勉強机の椅子を ギィギィ鳴らしている耀の様子を窺う。長い静寂の末に耀は恥知らずと罵った。 事実無根の噂は否定しておいたから耀が知るのは菊が発言したままの紛れも ない真実だろう。恥知らずと言われても仕方がない。けれどそれがすべてでは ないのを耀だけは知ってほしい。もしもイヴァンに知られたら、イヴァンでなくても 他の誰かに知られたら、こんな脆いものは簡単に壊されてしまう。だから形振り 構わず取り繕うしかなかったのだ。そのためなら誰にどんな目で見られようとも 構わなかった。しかし耀の機嫌がここまでこじれたらどんな理由があっても何の 意味もない。ではどうすればよかったのか。"ただならぬ関係"も"恥知らず"も 正しくその通りだ。菊に関して耀が知らないことはひとつもない。どこに触れると 身を捩ってはしたない声をあげるのか、その甘い声がどんな風に耀を呼ぶのか。 やり場のない感情が菊の心も体もぐちゃぐちゃに掻き回してますます混乱を招く。 どうしたら耀に許してもらえるのかわからない。幼い子供のようにぼろぼろと涙を 流しながら縋った。 「…耀さん、耀さ…哥哥、哥哥、お願いだから怒らないで、私、哥哥が、哥哥が 好き、好きなんです、好き、哥哥、お願い、哥哥、許して、何でもします、何でも しますから、怒らないで、お願い哥哥、哥哥…」 繰り返す言葉は愚かしいほど昔から何も変わっていない。お前は我がいないと だめな子あるねと喉の奥で笑い声がひしゃげる。夕暮れの町並みから耀の部屋 だけをカーテンで切り離して蒸すような薄闇を作り出すとどうしようもない不安が 影を潜め、どうしようもない渇望が全身を染めていく。菊は偽らない。ただ隠して いるだけだ。兄と慕う赤の他人を心も体も欲してやまないとことは、耀さえ知って いればそれでよかった。 |