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日頃からニュースどころか天気予報もろくに見ていないギルベルトである。この 原油高の折に燃費も残量も気にせずバイクを運転していたのも災いした。よもや こんなところでそれらが祟るとは思いもしなかったのだ。その結果が人里離れた 山の中でのガス欠である。走り出してまもなく空は暗雲垂れ込めてついには泣き 出した。そのときすぐに戻ればよかったのだと今になって思い返すことはきりが ない。泣きたいのはこっちのほうだ、内心でそう思うと雨は一層強く降りつけた 気がする。厄介なことにギルベルトは今、子供連れだった。携帯電話の電波が 繋がらず、どこか通じる場所はないかとギルベルトが周囲を歩き回るあいだ菊は 道路沿いの大きな木に空いた洞に身を潜めて待っていた。細い枝を踏みしめる 音にひょっこりと顔を出す様子は何やらもともと森に住んでいる動物か何かの ようで可笑しい。普段なら盛大にからかってやるところだが、今はそんなことを 言える空気でもない。電話通じました?と不安げに尋ねてくる声に首を左右に 振ると、じゃあ雨がやんだら歩いて引き返しましょう、きっともうすぐやみますよと 笑う。チビのくせにポジティブでなんとも頼もしい限りだ。ああそうだな、と頷いて ギルベルトも大人には手狭な洞にもぐりこんだ。本当に止めばいいがと見上げた 空は希望に反してどこまでも灰色だった。ギルベルトの読みはこんなときばかり 的中する。雨はひどくなるばかりで、一向にやむ気配を見せない。日没を迎えて あたりは刻一刻と暗くなっていく。こんなチビに雨の中町まで歩かせるわけには いかないし、自分だけでも人を呼びに行ったほうがいいのではないか、だがそう なればこの山の中に菊を一人置いていかねばならない、そっちのほうが危険 ではないかとギルベルトはギルベルトなりに考えあぐねていて結論が出せない。 冷えますね、と小さな身を一層縮こませて震える菊にギルベルトは上着を脱いで ほら、着てろと肩にかけてやった。ローデリヒがこの場にいたらそんなお下品な 服を、と叱られかねない鋲の入った黒い上着であっても寒がる菊には助けとなる ものだった。それでも震えが止まらないのを見てギルベルトは互いの境を失くす ように体を密着させる。分け合う体温は上着を脱いだことで寒さを感じはじめた ギルベルトにも助けとなった。子供体温さまさまだ。体感温度がいくらかマシに なり、次に襲ってきたのは空腹だった。菊は昼から、菊をおちょくって遊んでいて 食いっぱぐれたギルベルトは朝から何も食べていなかった。ぐうと率直に訴える 二人分の胃袋に腹減って死にそうだぜと愚痴をこぼした。そこで菊がポケットを ごそごそと探り、見つけたのは二つの飴玉だった。はいプーさんの、とそのうちの ひとつを渡す。赤と青の紙に包まれた濃厚なミルクの飴だった。甘いものは嫌い ではないがいらねえ、お前食っとけとギルベルトの手のひらに落としたものを 返すと、どうして?お前甘くておいしいですよ?と菊は首を傾げる。おいしいのは 百も承知だが、今回のことは自分が招いたことだという反省が珍しくもギルベルト の心の中にあったようだ。俺は肉食だから飴なんか食わねーんだよと言えば なるほどと菊は思い出す。普段の食事でもギルベルトは野菜を残しがちだった。 実は偏食によるものだが、幼い菊は簡単に騙されてしまった。仕方なく飴を二つ 食べ終えて、なおも続く空腹感にまたおなかを鳴らす。その頃にはもうあたりは 真っ暗になっていた。就寝の時間が近づき、菊は次第に船を漕ぎ出した。時折 カクンといって慌てて目を覚ますのを繰り返す。寝ていいぞ、と完全に体重を 預けさせるといやです、起きてますと言って随分意地を張ったが限界は間近 だった。結局は睡魔に負けてぐったりと力が抜けていきながらも、菊はまだ何か 言いたいようだった。 「ねえ…プーさん…」 「ん、なんだ」 「…おなかすいて、死んじゃいそうだったら、私を食べてもいいですよ…」 ほとんど寝言のようなその一言に、ギルベルトは何言ってんだバカと悪態を 吐く。もうほとんど夢の世界にいる菊には聞こえなかったと見えて応答はない。 まったくひどい誤解だ。確かに肉食だと嘘を言ったけれど、お前みたいなチビが 言うには百年早いんだよと完全に寝入っている菊を洞の中に横たえて上着を かけてやりながら笑った。穏やかな寝息を聞きながら、さて今後どうしたものかと 改めて対策を練っているギルベルトに幸運は訪れる。たまたま通りがかる車が あり、ルートヴィッヒに連絡を頼んだのだ。迎えが来るまであと少し、帰ったら 帰ったで盛大に食らうに違いないお説教にため息をつきながらも寝かしつける その手は少し楽しげだった。 |