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ねえローデリヒさん、と幼い声が拙い発音で呼ばわるのにペンを走らせる手を 止め、なんです?と顔を向けると何か困った風に眉根を寄せたまま見上げる黒い 双眸にぶつかった。菊はそのまま何かを言いたげに口を開きかけたが、結局は 噤んでううん、なんでもないですとぱたぱたと軽い足音を立てて逃げるように 慌しく部屋から出て行く。ちょうど茶と菓子を運んできたエリザベータと廊下で すれ違ったらしく菊ちゃんおやつよと呼び止める彼女の声が聞こえるがあとでー と遠ざかる返事がかえってきた。おやつは大好きな時間であったはずなのに 後回しにする理由とは一体何なのか。ここ数日はずっとそうだ。ただの気まぐれ とも思えない。ローデリヒはエリザベータと二人、首を傾げる。それが明らかに なったのは翌日のことだ。敷地の隅にある使われていない建物に菊は怪我を した猫を隠していたのだ。幸い医者にかかるほどの傷ではなかったので簡単な 手当てを施し、こっそり食べ物と水を与え、楽しみなおやつの時間さえ後回しに するほど頻繁に様子を見に来ていたらしい。ローデリヒは生き物を飼うつもりは なさそうに見えたので捨ててきなさいと叱られるのを恐れて菊はずっと言い出せ なかったようだ。実際、ローデリヒは真相を知ったとき捨ててきなさいと言ったし、 隠し事をしていたことについては加減して頬を打った。白く丸い頬は赤らんで、 目には涙をいっぱいに溜めて、ごめんなさい…とか細い謝罪がその手に残る 痛みよりも深く胸に刺さる。菊の腕の中でおとなしい白猫が続いて謝罪する ようにニャアと鳴き、しょぼくれた背中が力なく元の場所に捨ててきます…と 応えてとぼとぼと屋敷を出て行った。しかし日が暮れてあたりが暗くなっても 菊は帰ってこなかった。エリザベータや使用人が屋敷の周辺を探したところ、 少し離れた街灯も届かぬ暗い路地にしゃがみこみ、ごめんねと何度もつぶやき ながら猫をずっと撫でていたらしい。ローデリヒさん、とエリザベータからも声が あがる。正直に言えばローデリヒは猫があまり好きではない。犬のように人間の 命令に従わないし、勝手気ままで、おまけに鋭い爪は手を傷つけて厄介だ。 だがこのままでは菊は素直に帰ってくることを良しとしないだろう。あれで結構 菊は頑固なのだ。まったく、しょうがないですねと大きくため息をついてローデリヒ は外に向かった。 「ちゃんとした飼い主が見つかるまでですよ?」 「…はい!ありがとうございます!」 晴れてローデリヒの許しを得て、菊はにこにことして白猫を連れて帰った。 菊に頼まれてつけた名前に、その後帰ってきたルートヴィッヒはまた妙な名前を つけたものだなと笑みを隠す。全身真っ白ながら口元に一部分だけ黒いぶちが ある彼はマール(ほくろ)という名がついていて、現在飼い主を探しているところ である。 |