「 店員一名、プライスレス 」



 菊の死んだ父親はろくでもない男だった。妻には早々に愛想をつかされ、一人
息子に暴力こそ振るわなかったがひどい酒乱でギャンブル癖もあり、死後菊に
残したものは借金の山だけだった。幸い相手は話のわかる人でまだ学生だった
菊に返済は月々返せる額でいいからという寛大な処置をしてくれたが、身近な
反面教師のおかげで生真面目に育った菊はそれに甘んじることを良しとせず、
昼は大学、夕方からは居酒屋で、深夜からはコンビニでバイト、朝方に帰って
きてはわずかな睡眠を取ってまた大学へ、という日々を送っている。それでも
生活はギリギリで、居酒屋での余り物やコンビニの売れ残りが菊の栄養面を
支えていた。そんな菊の楽しみは大学で旺盛な知識欲を満たすこと、それから
コンビニでの客との交流だった。居酒屋での接客も嫌いではなかったが中には
警察沙汰に発展するようなはた迷惑な酔っぱらいもいて、亡き父を思い出して
うんざりしてしまう。その点コンビニではたまに嫌な客はいても、顔をしかめて
しまうようなアルコール臭を漂わせる客はまれだ。だから菊はどちらかといえば
コンビニでのバイトのほうが好きだった。常連客とはすっかり顔なじみになり、
レジが空いていれば世間話にも至ることがある。その常連客の中で、ひとり菊が
違和感を覚えているのは毎日のように買い物をしていく身なりのいい眼鏡の若い
男性だった。とてもコンビニなんていう場所が似合う人物ではない上流階級の
かおりが男性からは常に感じられて、菊は自分とのあまりの違いに気後れして
気軽に話しかけることはできなかった。男性が来店するのはいつも菊がシフトに
入った直後の23時過ぎ。必ずあんまんやチョコまん、鯛焼きなどを買っていくため
菊がシフトに入って最初にする仕事はそれらを補充することだった。用意が整った
頃に彼はやって来てたっぷり二十分ほど店内をうろつき、カゴいっぱいに菓子を
詰め込んでレジにやってくる。職場か何かで人に配るんだろうと菊は思っている。
でなければあれだけのお菓子を毎日消費できるはずもない。支払いはだいたい
カードだ。カゴの中にアイスやデザート類があるとスプーンをお付けしますか?と
尋ね、男性はええお願いしますと答える。これが唯一の会話だ。そうして男性は
大きなビニール袋をぶら下げて帰っていく。この毎日のパターンが崩れたのは
就活に向けて忙しさを増した冬のことだった。大寒波が押し寄せて、隙間風の
入る安アパート住まいで暖房も持たない菊は日頃の無茶な生活のせいもあって
重い風邪を引いてしまった。けれど休むという選択肢は菊にはない。無理を
押してバイトに出たその日、いつものようにレジにやって来た男性はじっと菊を
見て、初めて事務的なやりとり以外に口を利いた。熱があるようですねと突然
指摘され、答えに窮していると男性はちょっと待ってくださいとレジを離れ、また
店内を一周したあと別のカゴには各種栄養ドリンク、ビタミン類のサプリメント、
果物のゼリーにレトルトのおかゆ、清涼飲料水のペットボトルと袋詰めみかんと
この男性にしては珍しいラインナップが詰め込まれていて菊は驚いた。それを
いつものようにカードで素早く会計を済まし、ふたつになったビニール袋の片方に
あとから追加したものをすべて入れるよう指示して、男性はこっちはあなたに
あげますと表情も変えずに平然と突き出した。ポカーンとする菊に休めないなら
せめて栄養ぐらいきちんと取りなさい、それでは治るものも治りませんと言って
なかなか受け取ろうとしない菊に無理やり押し付けるとそのまま帰ってしまった。
そのおかげか風邪はすぐに全快し、それ以来近寄りがたいと思っていた男性とも
肩の力を抜いて自然に会話できるようになった。しかしあのときの代金は決して
受け取ってくれない。曰く、私は厚意に見返りを求めるような瑣末な人間では
ありません。言い方はちょっとアレだが、いい人もいるもんだなあと菊はつくづく
思う。毎日のパターンはその後も続き、菊は大学卒業を控え就職も決まった。
長いあいだ世話になったバイトもいよいよ最後の日を迎えた。前日も来店した
男性には明日で辞めることを話し、もうこれで会うこともないかもしれませんねと
名残惜しくつぶやいた。いつかどこかで会うこともあるかもしれないけれど、その
保証はどこにもない。なんだか妙に寂しい気持ちで作業をしていると奇妙なことに
いつもの23時ではなく次のシフトへの引継ぎも終わろうという朝方、いらっしゃい
ませーと男性を迎えた。いつも二十分はかける品定めもなく商品を一切持たず
レジ前に立った。変だなと思いつつも今日はあんまんか何かだけを買うのだろう
と注文を待つと、男性は店員をひとり持ち帰りたいのです、あなたを。と何でも
ないことのように言った。予想だにしない言葉に菊は頭が真っ白になって習慣で
温めますか?と尋ねるとええ是非温めてください、私を。なんて笑う。あまりに
唐突で突飛な発言にどうしたらいいかわからない菊の動揺をよそに外で待って
いますからと男性は店を出て行き、出入り口の近くで腕を組んで立っていた。
菊が最後の挨拶を終えて外に出ると当たり前のように手を差し伸べた男性は、
さ、では行きますよと菊の手を引き有無を言わさずどこかに連れて行こうとする。
文字通りお持ち帰りされている菊はなんだか諦めの境地というかなんというか、
これはこれでいいんじゃないかと心の底から湧いてきた笑顔でその手をきつく
握り返すことにした。するとまだ名も知らぬ男性は嬉しそうに笑った。お買い上げ
ありがとうございました、菊は知らず知らずに芽生えていた恋心が報われたその
感謝を込めてぽつりと男性に告げた。男性は男性でずっと前から恋心を抱いて
いた菊を手に入れられた僥倖に感謝し、おつりはいりませんよと応えさらに強い
力で菊の手を握り返す。





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