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ないほどに幼いことを知っているはずの家庭教師の男だった。アッパークラスの さらに上級、何ひとつ不自由ない裕福な家で育った俺は学校というものに通った ことがなく、同じ年頃の女の子と接する機会は皆無に近くて、ただ本で見知った 恋愛に憧れ、まだ見ぬ女の子に夢見るただの小便臭いガキだった。俺がどんな 疑問をぶつけても優しく丁寧に教えてくれる家庭教師の菊だけが関心を示さない 両親やすでに家を出た兄と違って俺の宝物だった。その宝物もまた汚い大人に 過ぎないなんて気づきもせずに。その頃の俺は恋っていいなあ、恋をしてみたい なあというのが口癖のようなものだった。菊はいつも笑ってはいはいと俺の話を 聞いてくれていたのに、そのとき菊はなんだか怖いような笑みを浮かべて、では 恋とはどのようなものかご存知ですか?と尋ねてきたのだ。恋などしたこともない 俺にも思い描く理想の恋というものがあった。綿あめみたいに甘くてふわふわ して、ドキドキするものだろう?俺はその答えを上出来だと思ったのに、菊は 首を振る。恋とはそのように甘やかなものではないのですよ?そう言って口元を 歪めた菊の顔が今でも忘れられない。男を生きたまま釜茹でにして食べてしまう 魔女がいたとするなら、きっとあんな顔をしていただろう。あるいは男の精を吸い 尽くしてしまう悪魔。優しかった菊の豹変に驚く間もなく眼鏡を外されてしまった。 近眼の俺は何をするんだよ見えないじゃないかと不平を口にしたがその文句も あっという間に塞がれてしまった。菊の、柔らかなくちびるによって。それは温かく とても心地のいいものだった。日頃の挨拶のキスよりずっとドキドキして嬉しい ものだった。そのうちぬめる舌が侵入してくるまでは。こんなのはキスではないと 恐怖に襲われ突き飛ばせば菊はまたあの顔で冷たく笑う。ひどく恐ろしかった。 大人のキスは怖いですか?そうか、これが大人のキスなんだ。俺はその存在 すら知らない子供であった。そのことが少しばかり恥ずかしく、悔しく、怖くなんか ないぞ!と言ってしまう。くだらない見栄だ。背伸びしたかったのだ。俺は早く 大人になって菊に追いつきたかった。菊がいつもと違って見えるのは俺が子供で 何も知らないせいなのだと懸命に言い聞かせていた。するとまもなく再開された 大人のキスは、口の中を縦横無尽になめくじのような舌がおぞましく這い回る、 ぬるぬるして、ひたすら気持ち悪いものでしかなかった。すぐに息苦しくなって、 菊の胸を叩くとようやく解放してくれた。口元の唾液を拭う菊はやはり魔女か 悪魔のような顔をしていた。このように、恋なんて醜悪で汚らしいものなのですよ と菊は言う。嘘だ、これは恋なんじゃない。こんなものが恋のはずがなかった。 どうして嘘を言うんだ。俺は菊が怖くてたまらなかった。菊はこの件が露見して クビになり、どこに行ったかも知れない。それから長い年月が過ぎ、俺は高校、 大学を経て周囲の友人がするように普通の恋愛をしたくなった。女の子と付き 合うチャンスは幾度も巡ってきて、そのたび終わっていった。セックスどころか キスさえ俺はできなかったからだ。あれ以来、他人の唾液や粘膜に嫌悪を 覚えてしまっていた。何気なく回し飲みされるジュースでさえ手をつけられない。 親兄弟と挨拶のキスすら交わせない。きっとこれは病気だ、あの男が俺に植え 付けた病気、あるいは呪い。いつしか菊を思い出すと憎しみが伴うようになった。 復讐しなければと俺は思った。あの魔女を、悪魔を、退治せしめねば。菊の 行方を追うのには時間と金が必要だった。何も惜しくはない、俺をこんな目に 遭わせた報いを与えるためならば。ようやく見つかった菊は遠く離れたごみごみ とした都会の片隅で汚い商売をして暮らしていた。教え子に手を出した菊は 教職を追われて以降、どんな職についてもその噂のせいで退職を余儀なくされ、 祖国でもそれは同じで、やがてそんな薄汚い商売でしか生きられないように なっていた。菊は菊で悪夢を味わっていたなんて俺は笑えて仕方がなかった。 その吠え面をなんとしても拝まなくてはいけない。俺はすぐにチケットを取った。 再会は夜の繁華街だった。金をちらつかせると菊は俺とも知らず簡単について きた。馬鹿な男だ。サングラスを取ったときの驚いた顔といったらなかった。 掃除の行き届かない汚らしい公衆トイレの個室で見聞きしただけの知識を忠実に なぞらえると屈辱か悔恨かただの肉欲か知らないけれど彼は確かに反応し、 あれほど唾液や粘膜を嫌悪した俺も不思議と最後までやり通せた。二度目の くちづけは甘くも苦くもない、無味無臭の、ただのくちづけだった。こんなものに 怯えていたなんてまったく馬鹿らしいことをしてしまった。荒い息のまま、いつか 恋は醜悪で汚らしいものだと言ったね?と聞くとそれ以上に息を乱す菊はええ、 言いましたねと応えた。覚えていてくれた、忘れずにいてくれた。あのとき菊は、 どうして俺に大人のキスをしたのだろう。何故恋を教える必要があったのだろう。 アル、と微笑む菊が俺の頭を昔と同じように撫でる。愛しく俺を見つめる目は何も 変わっちゃいなかった。俺はもうすっかり大人になっていて、あの頃の無知で 愚かしいほどに純粋な子供ではないのに。 「…俺は君に、ずっと恋してたんだね」 そして君もそうだったんだ、俺はやっと気がついた。 |