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※死にネタ注意! お隣さんで、物心ついたときには既に俺の日常に欠かせない存在だった。お互い 両親の仕事が忙しく、面倒見のいい菊は本当の弟みたいに可愛がってくれて、 俺はずっと菊が大好きだった。その"好き"の意味が違うことに気づいたのは菊が 結婚したときだ。俺が大学卒業する少し前、菊は俺に妻となった女性を紹介して くれた。本当なら祝福すべき場面なのに、俺は置いていかれたような気持ちで いっぱいだった。成人もして就職も決まって、やっと追いついたと思ったのに菊は 俺の手の届かない誰かのものになってしまった。見知らぬ女と幸せそうに笑う 菊を見て、それまでのどの失恋よりも重く堪えた。つまり俺は恋と気づいたとき には失恋していたのだ。しかし菊の結婚は二年ほどで破綻した。何が原因か までは聞いていない。菊は単身者向けのマンションに移り住み、そこで小説を 書いて生計を立てている。俺はその機に乗じて隣の空き部屋にまんまと転がり 込んで、俺たちはまたお隣さんとなった。それからさらに時は流れ、俺は菊が 結婚したのと同じ年になった。元々家事は得意でなかったし、仕事は忙しいし、 自分の部屋にほとんど寝に戻るだけで俺が帰る場所といえば菊の部屋だ。その 日も俺はくたくたに疲れて帰宅した。菊は締め切りが近いらしく、机のパソコンに 向かったまま背中で俺の話を聞いている。 「ひどいんだよもう!休みだってのに上司から急に呼び出されてさ、一体どんな トラブルかと思ったらクライアントからの苦情っていうのは全部嘘で、ほんとは 俺に見合いをさせるためだったんだよ!」 菊はへえと相槌を打つ。キーボードを叩く音が部屋に響いている以外は静かな ものだ。ソファにどっかり身を預けて、ネクタイを解いて乱暴に投げ捨てる。一番 上等なスーツを着て来いなんて言うから俺は朝から身支度に慣れない気を遣い、 菊にも相談して焦りに焦って出かけたっていうのに、本当にひどい話だ。確かに 上司は前々から俺に見合いをしろとうるさかった。次から次へと女性の写真を 持ってきては俺に結婚を勧める。興味のない俺は断り続けていた。今回会った のはその中でたぶん最も条件のいい女性だ。得意先のお偉いさんのお嬢さん。 いわゆる逆タマってやつになるはずだった。 「で、どうしたんです?」 「昔の俺なら怒ってその場で帰っただろうけど、適当に話してうまく断ったよ」 勝手知ったる我が家のように冷蔵庫から断りも入れず缶ビールを取り出して ぷしゅとプルタブを引く。缶に直接口をつけて半分ほど一気に飲み干すと少しは 腹立ちや疲れも紛れていくような気がする。唐突に打鍵の音が止んでふと顔を 上げると菊は俺のほうを向いて微笑んでいた。 「…大人になりましたね、アルは」 菊は何かまぶしいものでも見るように目を細めている。それは菊が嬉しいときに 見せる表情だと知っている。要するに菊は褒めているつもりなんだろうけど俺は 素直に喜べない。そんなこと今更だろう?だって俺はもう三十過ぎてる。上司は 言う。"お前もいい年だ、そろそろ身を固めてもいい頃合なんじゃないか"。三十を 過ぎると極端に体力が落ちると話には聞いていたけれど、まさか自分もそうなる とは思わなかった。もう若くはないんだ。最近自分でもそう実感することがある。 上司の言うことはもっともだ。俺だって将来を考えるならそろそろ結婚を真剣に 考えなきゃいけない時期なのはわかってる。でも俺は、俺はまだ。 「…いつまでも子供のままではいられないからね」 缶をテーブルに置き、俺は菊を見つめる。四十を過ぎたのに菊の童顔はあまり 変わらない。大人を意識して前髪を上げるようになった俺と並んだらまだ俺と同じ ぐらいか、下手したらもっと若く見られるかもしれない。ただ年々積み重ねられた 疲労がどことなく感じられて、それが菊の年齢を思い出させた。 「でも、君だけのヒーローでありたいとは思ってるんだ…今でも」 俺は正直な気持ちをありのまま菊に告げる。子供の頃は世界を守るヒーローに なるんだと信じて疑わなかった。そんな幼い夢は叶わないのだと現実を苦く飲み 下しても、俺は菊を好きなまま。断ち切ることなんて出来ない。だから俺が他の 誰かと結婚したいと思うわけがないのだ。妻と子供のいる幸せな家庭、そんな もの要らない。出世とか財産とか、そんなもの要らない。俺が欲しいのは菊だけ。 「…あなたはいつだって私のヒーローですよ?」 菊はおもむろに椅子から立ち上がり、ソファに歩み寄ってきて俺の整えた前髪を ぐしゃぐしゃにしてしまう。せっかくの色男が形無しだ。でも菊が無邪気に笑って いた。それだけで俺は満たされた気分になる。そばにいてもいいんだと、許して もらえてるような気になる。今よりもう少し若かった頃、菊に結婚しようと言った ことがある。菊は冗談としか受け止めてくれなかった。『いつか君が年を取って 死ぬとき、君のしわくちゃの手を握っていたいと願うことはいけないことかい?』 真剣な俺の問いかけに菊は曖昧に笑うだけだった。それがNOの返事の代わり だとわかっているから、俺はこのままで充分に幸せだった。ずっとずっとこのまま 菊のそばで生きていきたい。俺はもう、それだけでいいんだ。 だけどそれから一年もしないうちに菊はあの上司と同じようなことを言って俺に 結婚を勧めるようになった。菊は俺の本心を知っているはずだ。俺は裏切られた ような気がしてひどく落ち込んだ。菊は俺のことが邪魔になったんだろうか?菊は また誰か別の人と俺の手の届かないところに行ってしまうんだろうか?猜疑心 ばかりが募っていき、顔も合わせない日が何日も続いたある日、仕事から帰ると 俺の帰る場所であった菊の部屋は書き置きのひとつもなくもぬけの殻になって いた。がらんどうの部屋の床に俺はがくりと膝をついた。ただ、涙が出た。俺は 菊のことを忘れようと上司の勧めに従って見合いを重ね、何人かの女性と付き 合いもした。しかし胸にぽっかり空いた空洞は一向に埋まらない。むしろ空洞は 広がっていく一方だった。どれぐらいの月日が流れたのか、俺は看護師の女性と 交際していた。同棲に近い生活のなかでそのとき俺は彼女の職場に忘れ物を 届けに行くことになっていた。何気なく通り過ぎた病室の前、何とはなしに見た 名札。見間違いじゃないと気づいたときの衝撃。忘れもしない、その名前。そこは 末期がん患者が余生を送るホスピスだった。 「…見つかってしまいましたか」 再会した菊の第一声はそれだった。悪戯を見咎められた子供みたいな顔をして いるのに、酸素マスク越しの声は掠れてひどく弱っている。昔から細かった菊の 体は見る影もなくさらに痩せ、いくつもの管に繋がれて、その命がもう長くない ことは素人の俺にも一目でわかった。菊が急に態度を変えたこと、黙って姿を 消したこと、俺はすべての理由を悟った。こんな風に再会するぐらいなら、いっそ 死ぬまで何も知らずに恨み続けたかった。菊はすみませんと眉毛をハの字にして 頼りなく笑った。不思議と涙は出てこなかった。 俺は彼女と別れ、仕事以外のすべての時間を菊の病室で過ごすようになった。 完全看護だと説明は受けたけれど無理を言って簡易ベッドも置かせてもらった。 俺の帰る場所は菊の病室になった。今まで菊が俺の世話を焼くことはあっても 逆の経験はなかったから新鮮な喜びに満ちた日々だった。いびつに剥かれた りんごを菊は嬉しそうに口に含んでくれたけれど固形物を飲み込むことはとうに 難しくなっていて、むせ返る菊にごめんなさいと謝られてしまった。謝る必要は どこにもない。誰も悪くなんかない。それでも残された時間が手のひらから零れ 落ちる砂のように急速に失われていく。俺は何も出来ずにそばにいるしかない。 そのうち菊はほとんど眠っているような状態になった。医師は首を横に振った。 俺の力なら簡単に手折ってしまそうなほどにやつれた手を怖々と握る。ずっと ずっと先の未来、互いに年を取って菊を看取るときこうしたかったのに、どうして こんなに早く。ピッピッと菊の命を刻む音の間隔がだんだんと開いていく。 「ねえ菊、結婚しよう」 もう菊の耳に届くかわからないけど俺はもう一度プロポーズした。やっぱり俺は 菊が好きだった。こんなオッサンのどこがいいんですかだとかアルは物好きです ねえだとか、まだ元気だった頃の菊の声が次々と脳裏に響いて、最後に「もう、 しょうがないですねえアルは」と昔から俺のわがままを聞き入れるとき決まって 言う呆れたような菊の口調が聞こえた。幻聴だろう。現に菊の意識はない。でも 菊の顔がとても穏やかに笑みを作っていた。俺はより強く力を込めて菊の手を 握る。ああ、昔この手を引いてくれたのは菊だったっけ。今はまだ温かいけれど、 心電図の波は次第に平坦に近づいていった。俺たちの手のひらに、時間の砂は もうない。 「どうせならさ、もっと早くオーケーしてくれると良かったんだけど、ねえ菊…」 耳障りな電子音が鳴り続けているなか、俺は最後に文句を言ってやった。これ ぐらいの恨み言なら菊も許してくれるだろう。今まで何かに堰き止められていた 涙がその瞬間溢れてずっとずっと止まらなかった。 |