※春を売る描写、暴力描写があります
※(A)とは対になるものでこちらの原案はどさくさまぎれのサギヤマさんです




「 契約恋愛の殺しかた 」(B)



 確かに妹に会ってみたいと言い出したことはあったが、まさか菊に知らせずに
アーサーがひとりで病室を訪ねるなど予想だにしない事態だった。あれはただの
社交辞令の一種ではなかったのか。何も知らぬ妹は兄の友達に初めて会ったと
見舞いの花を嬉しそうに眺めていた。むせ返るほどに清冽な、淡い桃色の薔薇。
いてもたってもいられずに病室を出ると菊はその足でアーサーの家に向かった。
出迎えたアーサーは何かあったのかとただならぬ雰囲気に表情を強張らせる。
菊は随分長い距離を走ってきたと見えて全身を大きく揺らし、忙しなく呼吸する
ばかりで会話もままならない。思い返せば菊が自分から出向いてきたことなど
一度もなかった。学校外に出れば呼び出しに応じるという形でしか会ったことが
なかった。契約を履行するにも、ただ遊びに行くにも。その菊が自ら訪ねてきた、
アーサーの心配も当然のことだった。どうした、何があったんだと荒い息遣いで
下を向いたまま何も答えようとしない菊の肩に手を乗せたそのときだった。突然
乱暴にその手を振り払い、憤怒の形相をした菊は驚きに呆然とするアーサーを
力任せに押し倒して胴の上に馬乗りになった。振り上げられた拳に殴られる、と
咄嗟に身構えたがそれは暴力にいたることもなく、やがて力を失ったかのように
すとんと床に落ちる。玄関ホールに響いたのは菊の嗚咽だった。
「どうして!どうしてあなたは!…私なんかと普通の友人みたいに付き合おうと
するんですか…!」
 日頃決して激情に任せて大声を出したりしない菊がこんな風に声を荒げるのを
アーサーは見たことがなかった。絞り出した声や態度は怒りに満ちているのに、
その顔は悲しみに彩られている。どうして、どうしてと繰り返す声は次第に小さく
なり、嗚咽しか聞こえなくなった。そのままの体勢から菊、と名前呼んで頬に手を
伸ばした。顔を覆った両手の下で菊が泣いていると思ったのだ。
「…あなたといると、自分が汚いんだって実感して苦しいんです…だってあんな、
あんなこと…!」
 それが例の"アルバイト"のことを差しているのだとアーサーにはすぐわかった。
『こんなことして嫌じゃないのか?』
 いつかの不躾な質問にそんなの全然なんてことないですと平然と笑うその態度
こそが偽りだと、彼が心の奥底でずっと苦しんでいるのを知っていてアーサーは
金を払っていたのだ。菊がその苦しみを吐き出すのを目の当たりにしても慰める
でも非難するでもなく身を委ねている。しばらくして手を退けた菊の頬には想像に
反して涙はなく、代わりに虚ろな目があった。光の消えた真っ黒な瞳だ。不意に
菊は無防備に空いたアーサーの首元に手をかけてきた。ぎりぎりと締める力を
加えてくる。しかし弱い。本当に殺す気であればもっと力を込めなければ。半ば
他人事のように思いながら闇のような瞳をじっと見上げていた。肉体的な苦痛
より何よりそこに何か本物の感情が宿らないかと興味のほうが勝った。けれど
反射で咳き込んだ途端に菊はびくりと身を竦ませて手を離してしまった。なおも
アーサーは何も声をかけなかった。許可も得ず妹を見舞ったことも詫びない、この
関係を清算しようとも思わない、あのときのことを見なかったことにする気もない。
菊は発作的とはいえ己の為した行動に怯え、震えながら自身の両手を見つめた
末に、すみませんと言い残して逃げ出すように出て行った。翌日、学校で遭遇
すればいつも通りに笑って挨拶を交わし、他での"アルバイト"も続けていくつもり
らしかった。アーサーの首に跡が残らなかったのと同様、昨日の出来事も苦悩も
すべて泡沫のように菊の表面から苦悩は消えていた。数日後、約束の日が来て
アーサーは初めて待ち合わせを自宅ではない場所に指定した。野外ということに
躊躇しつつも指定時間に足を向けるとアーサーだけではない、知らぬ顔ぶれが
揃っている。
「最初からこうすりゃ良かったんだよな。俺さえお前のところまで堕ちれば済む、
そうだろ?」
 そうして煙草の灰を落としながらアーサーは制服のネクタイを緩める。半分ほど
燃え尽きた残りにもう一度だけ口をつけると、あとは用はないとでも言いたげに
地面に放った。それが菊の前に落ちたときちょうど電車がやって来て、通過音が
高架下に響いて鼓膜を震わす。振動で世界が壊れていくようだと思った。菊は
唖然と表情を失くしていた。アーサーにしてみればたいしたことではない。本当に
菊と友人になりたかったのなら初めからあんな"アルバイト"など引き止めれば
よかったのだ。菊の値段を聞いた瞬間から同じ土台に立っていたのにひとりで
間抜けに苦しんでいたのは菊だけだ。優しい人なんですね、と聞いたときには
笑い出したいのを堪えるのに必死だった。いつか汚してしまうと怯えていた菊。
まだ足りない、もっと汚してやりたい、それがアーサーの望みだったというのに。
脱げよ、と冷たく命じられて菊の肌は粟立った。触れてはいけない存在が同じ
汚泥に棲む人間と知って菊はやっと安息を得た。不思議な陶酔感が体の芯から
次々に沸き起こりうっとりと笑みながら制服にゆっくり手を伸ばす。電車が去って
自然のざわめきが戻ってきた。菊は静まったばかりの外の空気に肌を晒し、まだ
火の消えていなかった煙草を拾い上げてアーサーの唾液のついたそれを咥えて
まっすぐに見つめる。
「脱いで、それからどうすれば?お金次第で、何でもやりますよ」
 これから始まるのはおそらく吐き気のするようなおぞましい行為だ。だけどもう、
恐れるものは何もなかった。





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