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書き物の最中だった。どこからか自分を呼ぶ声がして縁側に出てみると声は 玄関先からで、長く家を空ける用事でもない限り年中鍵のかかっていない引き 戸は誰でも入ることができるのだが律儀に家人を呼ぶ人間は珍しかった。特に この声の主となると、それは不思議なことだった。菊は玄関に向かいつつ鍵は 開いてますよーとその人物は知っているはずのことを告げればへえ、それが 実は両手がふさがってるんでさァと声は答える。足を早めて、土足で三和土に 爪先をついて菊が戸を引くとサディクは紐で結わえられた大きなスイカを両手に、 さらに片方にはビニール袋までぶらさげていた。これでは戸が引けなかったのも 無理はない。こんにちはサディクさん、と名前を呼ぶと仮面に覆われていない 口元が嬉しそうにゆるむのがわかる。ひとまず片方のスイカだけでも預かろうと 手を伸ばせば重いですよ?との言葉どおりずしりとした重量感が両手に乗った。 叩いてみたらさぞ中身の詰まった音がするだろう。 「いやァ、留守だったらどうしようかと思っちまいました」 「すみません、お待たせしてしまいましたね」 サディクはいえ!連絡もせずに訪ねたのが悪いんですと帽子越しに後頭部を 掻く。書き物に集中していたせいで菊が気づくよりだいぶ前からあの状態だった ようだ。申し訳ない気持ちで頭を下げると空いた右手を左右に振ってそれより 早速食べませんか菊さん、今日は白チーズを持ってきたんでさァと何も気にした 様子もなく残るビニール袋を指した。袋の中に円を四等分にカットされた白い 塊が透けて見える。 「うちじゃあスイカは白チーズと一緒に食べるんでさァ」 なるほど日本人がスイカに塩を振るようなものだろうか、とくっきりと分かれた 黒と緑の縞をしげしげと眺めていたが客人を玄関先に立たせっぱなしなことに 気づいてさあどうぞと菊はサディクを招き入れた。お邪魔しやす、と慣れた仕草で 靴を脱ぐさまは親しみを覚える。居間まで案内して座ってもらうとじゃあ切って きますねとスイカと白チーズを預かり台所に向かった。まな板に乗せたスイカの 真ん中に出刃を当て、背からもう片方の手で押し、反対側からも同様に刃を 入れた。すると真っ赤に熟した身が現れる。種は少ない。おおーと不意に背後 から歓声があがったので振り向くとサディクが立っていた。どうやら気になって 見に来たらしい。 「来る途中、軽トラにスイカ積んだ行商人を見かけましてね、これは菊さんに是非 と思いまして」 「まあ、それはありがとうございます。とっても甘そうですね」 話しながら食べやすい三角の形に切ったものをひとつサディクにも渡して味見 をする。独特の風味と甘さが口に広がった。菊が甘いとつぶやけば甘えですね、 とサディクもつぶやく。真夏の味をした本当に良いスイカだった。こりゃ大当たりだ と喜ぶサディクを横目にさくさくと切り進め、チーズはどう切ればいいんです?と 尋ねる菊にサディクは適当でいいんでさァと応じる。その適当加減に悩むわけ だが短くない付き合いの経験から適当に見当をつけ、適当に一口大に切って 皿に盛る。夕暮れ時の縁側にそれらを二人で運んで腰を下ろせば涼しい風は 既に夏の終わりを告げている。 「サディクさんの持ってきてくださったスイカが最後かもしれませんね」 「だろうと思って余分に買っといたんでさァ。菊さん、スイカお好きでしょう」 ええ、と満面の笑みで返事をもらい、へへと笑う視線の先に桶に張った井戸水 に浮かぶもう一つのスイカがあり、手前に菊の薄い肩があった。肩につながる のは細い首筋とまっすぐに伸びた狭い背中。こういう時に仮面は便利だった。 不躾に見つめるのも自由なら顔を赤らめるのも自由、しかも相手に気づかれない ときている。胡坐を組み直し、音が鳴らないよう慎重に唾液を飲み込んでスイカを 含んだ口に白チーズを放り込む。垣根の向こうから飛んできたトンボが水面を 探るようにして去っていくのを目で追っていた菊が唐突に振り向いた。どうかした んですか?と無言の続いたサディクに問うが真相は言えずになんでもねえですと ごまかすしかない。目の前のスイカを横目に冷蔵庫の残り半分を思い、菊は 食べきれるでしょうかと心配する。 「腐らないうちにまた来まさァ」 菊の言葉を待たずに察したサディクが言うのを耳にして、菊は待っています からと微笑んだ。夕食でどうもてなそうか考えながら、ひぐらしの鳴き声を聞いて いる。サディクは仮面の下でさらに赤らんで、そばにあったうちわで顔をあおぐ。 |