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本田菊は言った。ルートヴィッヒが頷くと見るや、ああだからあのとき、と何かを 言いかけて突如黙り込んだかと思うと何やら落ち着かぬ様子で上着のポケットを ごそごそと探り出し、ほとんど無意識の行動なのだろう慣れた動作で煙草の箱を 取り出すとその一本を口にくわえ、病院は禁煙だと至極真っ当な注意を受けて やっと己の失敗に気づいたようだった。すみませんねとあまり反省の見られない へらへらと笑いながらの謝罪に少しばかり苛立って箱とライターを取り上げ、ダン と勢いよく机に叩きつけ、一体何のために来たんだ?とルートヴィッヒは呆れた ように吐き出した。この気まずい空気に菊はもう一度すみませんと詫びた。また へらへらと笑いながら。病院も病院、ここは禁煙外来なのだった。顔が怖いとよく 言われ、小児科での研修は散々だったルートヴィッヒの眉間にますます皺が 寄る。普通の患者ならおそらく逃げ出してるところだろう。なのにびくともしない この患者にルートヴィッヒはため息をつく。遡ること二ヶ月前、ルートヴィッヒが 彼と初めて出会ったのは駅のホームだった。階段を駆け上がってきたばかりの 男がすぐそばの柱に手をついて苦しそうに息をしていた。それがあまりに長く 続いたので医師として放っておけずに声をかけた、それが菊だった。大丈夫か? と聞くといけませんね、寄る年波には勝てなくってとあいまいに笑う男は十代か 二十代前半そこらにしか見えなかったので、若い身空で何を言ってるんだかと しかそのときのルートヴィッヒは思えなかった。電車はまもなくやって来て同じ 車両に乗り込んだはいいが、彼の顔色は一駅ごとに悪くなっていき、目的の 駅もたまたま同じだったらしく会釈を交わして降りた途端、菊は倒れたのだった。 その場で出来得る限りの応急処置を施して救急隊にバトンタッチしたあとの ことは知らないが、こうして禁煙外来に来たということは倒れた原因はそういう ことなのだろう。カルテで彼の実年齢を知ってルートヴィッヒは多少驚いたが、 その喫煙量のほうが驚いた。まだ深刻な病気を発病していないのが奇跡の ように思える。これでは死にたがっているようなものだ。数多くの禁煙希望者を 見てきたルートヴィッヒではあったが、菊はかなり重度の患者と言えた。他の 患者と同じようにニコチンへの依存度のチェックなど諸々の確認と禁煙誓約書 へのサインを済ませ、ニコチンパッチを処方して二週間後の再診を約束して 初診は終わる。菊は今度こそやめられるといいんですけど、とまるで他人事の ように言って椅子を立った。その背中を見送って、これはだめだなと経験上から ルートヴィッヒは思った。案の定、二週間後診察に現れた菊はやはり煙草の においをまとわりつかせていた。だめでした、とやはりまたへらへらと笑いながら 口だけの謝罪をする患者に、まれにあるケースとはいえ苛立ちを隠せなかった。 しかしそればかりではない。次の診察も、その次の診察でも結果は同じだった。 この患者にはまるで止める気配など感じられなかった。一体どんな生活をして いるのか気になって尋ねれば彼は作家をしていて、執筆のあいだ小さな灰皿 では追いつかないのでどんぶりを灰皿代わりにしているらしかった。担当の 人間が訪ねてくると彼の部屋はいつも煙でもやがかかったような状態で、いる だけで息苦しいと切々と禁煙を勧めてくるらしい。どうやら菊が禁煙外来に来る 羽目になったのはその担当とやらの仕業のようだ。ルートヴィッヒはよくぞ言って くれたと会ったこともない人物を心の中で称えるが、この本田という男、どうにも 難敵である。この調子で保険が利く五回の診察は結果を出せないまま終わって しまった。今後の治療の意思を確認すると、止めるつもりだけはあるようでまた 次の予約を入れて帰っていった。この日午前の患者は菊で最後であったため、 ルートヴィッヒはどっと疲れを感じて屋上に出た。深呼吸をして新鮮な空気を肺に 吸い込んで、凝った肩をぐるぐると回し、眺めのいい場所に置かれた灰皿を前に ポケットに手を入れる。おおっぴらには言えないが、そこには煙草とライターが 入っている。おや、と誰もいないと思っていたところから声がかかったのは煙草を くわえたそのときだ。わざわざ隣までやって来て、禁煙外来の先生でも煙草を 吸われるんですねえと菊は悪事を見つけた性質の悪い子供のように脇を肘で つつきながら言う。しかもその手には火のついた煙草があった。厄介なところを 見られただけでなく厄介なものも見てしまったとルートヴィッヒは改めて深々と ため息をついた。何もかにもが面倒になって内緒にしておいてくれとつぶやき、 もはや咎める気も起きずに彼の煙草から直接火を分けてもらい、そのまま吸い 続けた。もうついでだと自棄になり、だからあのとき、と再会したあの日、何を 言いかけたのかとルートヴィッヒは訊いた。応急処置してくれてるあなたが ぼんやり見えて、あなたなら叱ってくれると思ったんですよね、あはは。菊の 話は普段そういう文体で書くからなのだろうか、主観のみで構成されていて わかりづらかった。沈黙を壊すように菊はくすくす笑いながら面白がってどんな 煙草を吸っているのかルートヴィッヒの手の中の箱を見る。タール、ニコチン共に ごく微量しか含まれていないものだ。ルートヴィッヒはそれをせいぜい一日に ほんの一本吸うかどうかでどっしり重いものを際限なく吸う菊とは同じ喫煙者 でも大きな違いがあった。菊は吐いた煙に白く濁る町並みを見下ろして笑った のちに突然聞きたいことがあるんですけどと切り出した。軽いのを吸う人って 口寂しいだけって本当ですか?と背の高いルートヴィッヒを上目遣いでじっと 見る。物言わぬ黒い目が応えを待っている。そう言う中毒者こそ刺激が欲しい だけって本当か?と見下ろして澄んだアイスブルーが応じた。菊は口の端で 再び笑い、本当じゃないですかね、と確証のない噂話を肯定し灰皿に煙草を 置いた。それが合図のように思えてルートヴィッヒも同じように煙草を置き、その ヤニくさいくちびるに己のくちびるで触れた。長年の喫煙のせいで呼気も唾液も まったくひどい味だった。けれどそれがひどく心地よかった。阿吽の呼吸とも 言える暗黙の契約はこうして結ばれた。望みどおりライターを奪うと、初恋の 人が喫煙者でしてね、それ、もらいものなんですと菊は言った。年代物のライター には確かに名前が刻まれていた。そのまま屋上から無人の中庭に投げ捨てて やり、どうせなら最後の煙草が燃えつきるまで味わってやろうとルートヴィッヒは 再度くちづけた。その依存度は、言わずもがな。 |