「 青い花実と庭師鳥 」



 あるときを境に少しずつ変化していたものがついに次の段階に達する。それは足早に訪れた桜の
開花にざわめく胸にも似ていたし、膨らみきったシャボン玉が破裂するのを待つ不安と期待にも似て
いた。ここしばらく、彼らのあいだにはそんな空気が漂っているとアシェットはぼんやり思う。新入生を
迎える準備があるとかで、まだ春休み中だというのに今朝見かけた生徒会長殿は 何やら急がしそう
だった。決して追試補講組の自分や誰かさんとは違うのだ。あちらは外の世界と同じく春へ向かって
進んでいるのに、こちらは凍える冬を引きずったままだ。昨日まで同じ目線で見ていた連中を先輩と
見上げる事態は何としても避けたい。
 それにしても、こうして線引きをしてしまうと幼馴染であるはずの彼らがまるで接点の見当たらない
他人同士のように思えてくるから不思議だ。片や優等生、片や問題児。これだけで十分世界が違う。
目や耳、指先で触れる世界が違えば内包する精神も違ってくる。実際、彼らはしばしば意見の食い
違いから口論になり、果ては取っ組み合いに発展することもあるそうだ。半日常的な小突きあいとは
違う、本気で殴り合う彼らをアシェットはまだ見たことはないが、冷戦中の彼らときたらたまたま家が
近くであるというだけで無理やり組み合わされた、本来ならば溝の噛みあうこともない別々の歯車の
ようだ。けれども彼らはいつのまにか元通り、ぴたりと噛みあい、滑らかに動く歯車に戻ってしまう。
そこが幼馴染たる所以なのだろうか。古い友人はいても彼らのような立ち位置の存在がいないので
アシェットにはわからない。しかし、今は噛み合わない歯車以前の問題、という印象を受ける。こんな
雰囲気は今までなかったことだ。何かあったのかと安易に尋ねることもできない強い疎外感の前に、
部外者は立ち止まるしかない。
 色白の手。気がつくと目の前に手のひらが伸ばされていた。消しゴム貸して、と隣の席から小声で
問題児のほうが言う。筆記用具を丸ごと家に忘れたというので授業の前にシャープペンシルを貸した
ばかりだった。補講に筆記用具忘れるやつがあるかと小言を重ねて消しゴムを半分に折り、乱暴に
投げつける。空中できちんと受け取りながらも子供じみた拗ね顔がウッセ、と短く文句を吐いていた。
その様子もいつもと何ら変わらぬように見えるのに、どこか違って見えるのだ。何があったんだともう
一度心の中で問いかける。アシェットが聞けないのはちゃんとした理由もある。密約があるためだ。
 アシェットは友情と恋情を分ける要因が性的興奮を覚えるか否かという説に懐疑的だ。要するに、
問題児の友人に対して恋愛感情として好きだと思っているが、どうこうしたいとは思わない。告白の
必要性すら感じない。良好な友人関係を壊すのが怖いといった臆病風のせいではなく、男の体には
勃たないからという即物的な問題によるものでもなく、純粋に現在の関係が心地よく、これ以上何か
欲しいとは思わないからだ。十代にして早くも枯れているのかといえば、断じて違う。おとなしく黙って
いれば女の子に間違われることもある女顔の友人をそばで見ていて、ふとした瞬間垣間見る表情に
不穏な動悸を覚えることもある。けれどそれだけであって、そこから先がない。だが彼は違うらしい。
あの爽やかで清潔感溢れる容貌から夢精に関する失敗談など飛び出たときにはあまりのギャップに
唖然としてしまい、笑い話で終わらせてやることができなかったぐらいだ。
 すなわち、彼は友人をどうこうしたいと考えている、明確な恋愛感情を伴いながら、とても冷静に。
それは彼がアシェットの恋路における障害であることに他ならない。けれども彼に対しては警戒心や
敵愾心など欠片も湧いてこなかった。やっぱりそうかという気もしたし、付き合いの長い相手じゃさぞ
苦労するだろうなと彼の険しい道のりに同情を覚えたぐらいだ。友人が彼の恋慕をどう受け止めるか
予想がつかないので応援はできないとはっきり宣言すればそれでいいよと彼は言った。だけどもし、
僕のせいであいつが傷つくようなら支えてやってほしい、君だから頼める、君にしか頼めないんだと、
彼はすでに失恋を経験したかのような諦めきった顔をしてそう願ったのだ。アシェットは二つ返事で
承諾した。このやりとりを誰にも漏らさぬと約束もした。叶うならば友人二人とも、どちらも傷ついたり
悲しんだりするようなことなく、良い結末が迎えられればいいと祈っていた。けれど近頃の彼らを見て
いると最悪の結末ばかりが脳裏に浮かんでしまう。表面上の機嫌とは裏腹に、アシェットの心は深く
沈んでいく。
 昼過ぎに補講が終わると空腹も手伝って他の生徒はさっさと帰途に着いた。運悪く教師に捕まって
プリントの整理を手伝い終えて教室に戻ると、友人もとっくに帰ったはずと思いきや、二時も過ぎたと
いうのに友人は机に突っ伏している。寝ているのかと思ったが両目ともぱっちりあいていた。具合が
悪いわけでもないらしい。帰らないのかと尋ねればもうすぐ生徒会の仕事が終わるからと幼馴染に
言われたそうだ。それで二時間近くこうして待っているとのこと。時々、友人のこういうところがひどく
焦れったい。相手が遅れているのなら留守電に伝言を入れるなり何なりして先に帰るとかなんとか
他に対応はあるだろうと。ぐう、と惨めったらしく鳴る空き腹を抱えてまで律儀に待っていることもない
だろうに。
 ところがふと、さっきまで言動の端々に現れていた目に見えない茨を含んだような刺々しさが見事
消え失せていることに気がついた。忙しいなか生徒会を抜け出して一緒に帰ろうと約束を取りつけた
彼が何かしたのか、何か言ったのか。何はともあれ安堵する。そもそもこうも不安定になった原因は
何か、たぶん彼のほうから何か仕掛けたのだろうけれど、うまく収まったなら文句は言うまい。前進と
後退を繰り返しながらでもいつか最上の実を結ぶ日が来ればそれでいいのだ。何よりも優先すべき
己の感情はひとつ。
「俺はたぶん、お前ら二人とも好きなんだよ」
 小さく小さく呟いたアシェットの声は、誰にも届かなくて構わなかった。





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