「 Just never mind. 」



 救児院で育った子供たちは皆、ある程度の年齢に達すると誰に言われるでもなくそれぞれ自分に
合った飯の種を探し、院を出て自活の道を模索する。トリム港という立地上、多くは水夫だったり漁師
だったり、あるいはこの街を拠点に活動する幸福の市場関係で、売り子なり何なり職を得たりするの
だが、いったい誰に似たのやら、愛すべき妹分たちはよりによって暗殺者ギルドに入りたいがために
炊事洗濯裁縫等々、年頃の娘ならば積極的に取り組んでほしい事柄にはまるで見向きもせず、剣に
見立てた棒きれでチャンバラごっこを朝から晩まで繰り広げる毎日なのだという。
 なんでまたと理由は聞くまでもないけれども、救児院の"お母さん"は恩義ある彼がそのような口に
出すのも恐ろしいギルドの長と知らないし、剣の腕が必要な理由さえ理解できないままユーリに相談
してきたのだ。あの子たちったら剣なんて、いったい誰に影響されたのかしらねえ?裏読みなどなく、
純粋にお転婆が少々過ぎるのではないのかと心配そうなまなざしがひと握りの良心に突き刺さる。
さあ、闘技場の賞金目当てかね…なんて、もっともらしい理由をでっち上げる二枚舌の滑らかさよ。
母親代わりの彼女に嘘を吐く後ろめたさはとうの昔に海の底へ沈めてしまった。まあ俺からも程々に
するよう注意しとく、嫁の貰い手がなくなると困るしな。本音も多少交えてその場を凌ぎ、久しぶりの
"実家"で束の間羽を伸ばす。
 歩みを進めるごとに足にまとわりつく弟妹たちの無邪気な笑みや歓声が体感としてのみではなく、
現実の重みを伴って襲い来る。それらを次から次に押し退けて、人を昇り棒か何かと思っているのか
よじ登ってくるのを引き剥がしては適当に放り、それでも懲りない悪戯小僧には軽く小突いてやって、
その胸の内ではやはり殺しきれない葛藤を根深く抱え、足取りは重く、その手に抱えた罪もより重く。
しかし、笑うことだけはよく叩き込まれている。

「久々のホームはどうデシタ?」
 トリムから一転。前髪から長く垂れる長い部分をぼんやり眺めつつ、みんな元気だったと素っ気なく
一言。それはベリーグッドとすうっと目を細めた彼は、小さな善意の寄せ集めだけでは成り立たない
救児院の救世主だった。あるいは、返る宛てもない大金を投げ捨て続ける変わり者とでも呼ぶべき
だろうか。
 多大な恩義には裏がある。不正な手段で儲けた金銭を不正な手段で出所をわからなくして、その
一部を立派な行いのために使う。それは人間として正しい行為と言えるのか。綺麗な金と、汚い金。
どちらにせよ、それらがなければ路頭に迷う孤児が大勢いたことは事実だ。何より彼らはこの真相を
知らないし、知る術もない。もし真相を知る者が明らかにしなければ、いずれこのまま闇に葬られる
ことだろう。それでいい、そのほうがいいと、少なくともユーリはそう思っている。別に、真相を知った
からといって不幸だとか不運だとか感じているわけじゃない。知ってからは後戻り出来ないだけだ。

 無事独り立ちを果たす者と、新たに家族となる孤児。数年前までその数はほぼ一定で、ギリギリの
家計ながら細々とした寄付でもなんとかやっていたのだ。だが、あるときを境にその均衡は崩れる。
要するに、戦争だ。戦争が親のない子供を増やしてしまった。増えた子供の数だけ食べ物や寝床を
確保しなければいけない。人数が増えればこれまで借りていた借家では手狭だった。新しい"家"も
探さなければいけない。元々逼迫していた家計はあっという間に赤字の羅列になった。
 当時最年長だったユーリはまだ乳飲み子の赤ん坊さえいる弟妹たちの面倒を見ながら、危機的な
空気を敏く感じ取っていた。"母親"は日に日に隈が目立つようになっていく。夜もろくに眠れないの
だろう。優しさや愛情、使命感や責任感だけではどうにもならないこともある。幼くして理解した厳しい
現実を苦々しく受け止めるしかない日々の最中、救いの手はある日唐突に差し伸べられた。それが
彼だった。
 噂を聞いて少しでも助けになりたいのだと、本物かどうか疑ってしまうほどの大金を事もなげに差し
出した彼の態度はとても紳士的で、分けても余る大量の菓子を手土産に現れるたび、みんな笑顔に
なった。彼はユーリの黒髪をしきりに褒めて、自身の懐から取り出した櫛で丁寧に梳く。その優しい
手には血の臭いが染み付いているなど誰が思おう。もし、最初からそれが汚い金だと知っていたら
ちゃんと拒めていただろうか?家族を救えると知っても拒んでいたかなんてそんなこと、今更。
 ユーリがこの数年で学んだことは、一度嘘を吐いたなら最後まで嘘を吐き続けなければならないと
いうことだ。仮に人の血を吸った金で弟妹たちを養っている罪悪感に耐えかね、すべてを暴露したと
して、辛い思いをするのは誰か?答えは明確だった。今更後戻りなんて、出来るものか。
「元気だった。けど、問題がひとつ。ゴーシュとドロワットがアンタんとこで働きたがってる」
 ここで?と滅多にしない険しいまなざしで彼は聞き返した。その反応に安堵を覚えてしまう自分が
いて反吐が出る。この期に及んで、彼に何を期待するというのか。妹分たちをこちら側に引き入れる
ことに難色を示したからといって、尊敬に値する心優しい人間だと思い直すことはあり得ない。彼は
救児院に寄付した金をビジネスで得た収入だと言っていた。ユーリは暗殺や人を殺すための道具を
売る商売が存在するなど知らなかった。悪名高い暗殺者ギルド。前の首領を殺して、その地位ごと
奪った男。それが救児院を救ってくれた恩人、イエガーだ。

 弟妹たちより一足先に独り立ちするにあたって、ユーリは何より彼の役に立ちたいと思った。たまに
訪れては金を置いていくだけの男に、こちらから接触する術はない。ダングレストならギルドの街だ、
きっと何か情報を得られるに違いない。見知らぬ街で出会う人々に手当たり次第イエガーの名前を
出しても首を横に振る者がほとんど。ごく稀に知る者がいても、蛇蝎のごとく罵られるばかりだ。ある
者は悪いことは言わない、その男のことは忘れてどこか遠くに逃げたほうがいいと助言すら与える。
己が知っている男とはあまりにも印象が違う。ひょっとしたら同名の別人ではないのか、きっとそうに
違いない。そう思いはじめたところに偶然、赤い眼をした異様な出で立ちの者たちを引き連れた彼が
通りかかる。
「ボーイ、どうしてこんなところへ?」
 見たこともない、冷たい目だった。今すぐここから立ち去れとその目は言っていた。おとなしく従った
ほうが良かったのだ。どうしてそこで踏み止まってしまったのか。一度坂を転がりはじめたら、落ちる
ところまで落ちるしかないのに。
 ユーリがイエガーの側近として海凶の爪依頼全般に関わっていくのはそれから間もなくのことだ。

『護衛の役割ははゴーシュとドロワットに任せる。剣の腕は十分だ。俺は"本当のアンタ"の手伝いが
したい』
『アイシーわかりマシタ。これもカルマのひとつ、デスネ』
『カルマ?』
『…さあ、なんのことデショウ』

 もう何年もあの人の下で働いてきたけれど、明確な意思を持って命令に背いたのはこれが初めて
だった。最後の命令はゴーシュとドロワットを連れて、追っ手の届かぬところまで逃げて幸せに生きる
こと。その意図するところは重々理解している。だから妹分たちは置いてきた。だけども、どうしたって
自分によく似た性分だ。おそらくもうじき追いかけてくるだろう。その前にケリをつけておきたい。
 ユーリが背にした扉の向こうに死を覚悟した男が侵入者を排除せんと待ち構えている。ならばその
前に少しでも手傷を負わせておけば彼の目的も遂げやすくなる。もしかしたら時間を稼げる。捨て駒
だろうと構わない。
 それでも、こんな悪足掻きに何の意味があるのかと己の内で囁く者がある。相手は騎士だ。それも
帝都で浮浪児同様に暮らしていた幼い頃、駆けっこだって何だって勝てなかったフレンだ。あれから
ずっと日の当たる正しい道をまっすぐ歩み、これからだって歩んでいくに違いない、ユーリとはまるで
正反対の男だ。逆立ちしたって敵いやしない。それでいい、間違っているのは自分のほうだ。もっと
早く、妹分たちを巻き込む前に、彼の正義の刃で裁かれなければならなかった。そうすればあの人も
ここでこんな風に死を選ぶことなんてなかったのに。
 彼がもうずっと昔に死んでいた人間だとしても。
 夢のように美しい海底の世界、近づく足音に耳を澄ましている。不思議なくらい穏やかな気分だ。
最後の最後、ひとつだけ願うことが許されるなら、本当の名も知らないあの人と一緒に。





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