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大学に進み、そのまま就職したが父親が腰を痛めたのを機に帰郷を決めた。 先祖代々受け継いだ田畑を自分の代で終わらせるわけにもいかないし、どうせ いつかは戻るつもりでいたのだ。それなら早いほうがいいだろうと早速会社を 辞めて村役場への再就職も無事決まった。収入は減ることになったが農家と 兼業でなら充分食べていけるだろう。盆正月もろくに帰ってこない薄情な長男の 決断に菊の両親は大喜びで、あとは嫁っこばもらうだけだなや!と帰った当日 から見合い写真を並べてある有様だった。まったく興味がないとは言わないが これまであまり女性と縁のなかった菊はハイハイと聞き流し、久々の郷里の味に 舌鼓を打って荷解きをしているうちにその日を終えた。翌日は早々に自宅から 徒歩で数分の本田の本家に挨拶に向かう。本田の本家は昔このあたりを取り 仕切った名主の家系で、菊の伯父夫婦が今も築百年をゆうに越える水回りを 改装しただけの立派な古民家に住んでいる。菊の従兄弟たちはそれぞれ自立 して街に住んでおり、いまだ田畑を継ぐ気はないと聞いた。ゆえに菊が訪れた ところで祖父母も亡き今は伯父か伯母以外は誰もいないはずであった。しかし、 こんなド田舎においては滅多に出番のないインターフォンを無視して留守だろうが 大抵鍵の掛かっていない玄関をこんちはー菊ですけどーと開けて勝手知ったる 我が家のように上がりこんだとき、菊は予想だにしない人物と出くわした。天を 突く高身長に稲穂のような金髪に空のような青い目、眼鏡の奥の表情は威圧感 たっぷりに菊を見下ろす。「どつらさま?」と明らかに外国人である彼がこちらの 訛りで尋ねてくるのもまた奇妙で、菊はなんと答えたらいいのかもわからずに ひたすら困惑する。菊からすればあなたこそどちらさま?なのだ。そのまま彼は 黒光りする木造りの廊下の端からのしのしと歩み寄ってくる。天井が高い旧家 なのは彼にとって幸いだろうが、そんなことは今はどうでもいいことで見知らぬ 外国人が恐ろしい形相をして接近してくるという状況に菊は壁に背を預けてただ 全身を硬直させるしかない。物取りにしては落ち着きすぎてそうは見えないが 怖いことに変わりはなかった。ついに手を伸ばせば届くほどの距離になってより 増した迫力に気圧されつつ「え、あの、その、えっと、私はですね…」と言葉に 詰まっているとちょうどそこで玄関の戸がガラガラと開く。やはり無用心に家を 空けていたらしい伯父と伯母が帰宅したのだ。「なんだあ菊、来ったけのがあ」 「なして昨日のうぢに顔見せねがったなやあ」と肩やら胸やら背やらを遠慮の 欠片もなくばしばし叩き、久方ぶりに会った伯父夫婦は実の息子同然に面倒を 見てきた菊との再会を歓迎してくれているようだが今の菊はもっぱら目の前の 強面の外国人が何者であるのかのほうが気になってしょうがない。「ああ、んだ。 ベーさん、この子がゆんべ話した甥っ子の菊」と伯父はこのド迫力も気にならない かのようにのんびりと彼に向き合って菊を紹介する。ベーさんと呼ばれたほうの 男はそれを聞いて首を傾げて、やがて何か思い出したように手を打ち、うんうんと 何やら納得した風に頷いて小さい子供にするように頭をぽんぽんと叩いてから 「よろすぐ」と身長に見合った大きな手を差し出してきた。何をどうよろしくなのか 菊にはわからなかったがとりあえず握手にだけは応じる。その後は「まんず茶ア でも飲んでけっちゃあ」と伯母に居間へと引き込まれて菊は年代物のこたつで 伯父伯母、ベーさんという謎の男という面子でお茶飲みタイムとなった。そうして やっと明かされたのは、このベーさんという男は三年前からこの家に下宿して いる地元の中学校の英語教師で、本名はベーなんとかかんとかというそうだが 長いカタカナ単語は伯父伯母が覚えられないのでこの呼び方に収まったのだ そうだ。来日してすぐこちらに赴任し、すっかり方言に染まってしまったらしい ベーさんは長いあいだ標準語の世界に浸かっていた菊よりよほど地元の人間 らしかった。古い日本家屋に興味があるとのことで是非下宿させてくれと頼み 込まれ、部屋も余っていたことから農作業の手伝いを条件にタダで住まわせて いることを伯父は「いんやベーさんは働き者だべし、バガ息子どもは帰ってこね べし、いっそ養子にでもなってほしいぐれえだ」と大層自慢げにカラカラと笑い ながら話す。そういうことなら今後は頻繁に顔を合わせるだろうし「よろすぐ」の 意味もわかるというものだ。顔は怖いが、いやオーラも怖いが、悪い人ではない ということは伯父と伯母の様子からもよく伝わってくる。こうして菊はベーさんと 知り合った。まもなく春を迎え、雪解け直後から早速田植えに向けての準備も 進む。伯父の言葉通り隣り合う田畑でしょっちゅう遭遇するベーさんは積極的に 土に汚れて農作業を手伝い、菊が重い肥料の袋を一輪車で運んでいるときなど 「代わっがら」と随分久しぶりで今ひとつ慣れていない菊の分まで手伝ってくれる 好青年ぶりだった。べーさんは口数が多くないし、この強面で授業はどうなって いるのか心配ではあるが、優しい彼の性格ならばうまくやっているのだろうと 思う。菊も菊で村役場の仕事は順調だった。機械化で昔より随分楽になった 田植えを終え、頼りなかった苗は月日を重ねるごとに青々と伸びゆき、夏には 緑の海を成し、小さく儚い花を咲かせたあと稲穂は重みを増してゆっくりこうべを 垂れて田は一面、黄金に色づいていく。刈り取った稲の束を田に刺した木杭に かけて天日干しにするときなど特にベーさんの背丈が役立った。いいなあ、と 羨望のまなざしを送るとベーさんはまた菊の頭をぽんぽんと叩く。初対面からよく されるのだが自分を子供か何かだと思ってるのだろうかと菊はそのたび不安を 感じてしまう。伯父が酒好きで本家では何かと飲み会があるので毎度呼ばれる 菊が酒を飲める年齢なのは知っているだろうが、まさかとうに三十路を越えて いるとは思うまい。つくづく童顔が嫌になる。そして秋から冬へ、冬から春へ。 春、夏、秋、冬、季節の移り変わりが三周ほどした夏にベーさんは帰国する ことになった。うっかり尋ねるのを忘れたまますっかり家族同然の間柄になった 今頃になって生まれや本名を聞くのはなんだか変な気持ちだった。慣れ親しんだ ベーさんがベーさんでなくなってしまう感覚を寂しいと菊は思った。「スウェーデン って遠いんですね、ベールヴァルドさん」話を聞いたその日のうちに学生時代の 地図帳を引っ張り出して確かめた彼の母国。故郷と東京しか知らない菊には あまりに遠すぎた。「…おめにそだい呼ばれっどなんか変だなや」田に面した 道路の縁に座って、ベールヴァルドは夕日を斜めに受けて波打つ一面の緑を 遠く見つめながら答えた。ここはベールヴァルドのお気に入りの場所だと教えて くれた。菊もその隣に座って幼い頃から何ひとつ変わらない眺めを見つめる。 ベールヴァルドはここからの眺めが、この風景が好きだと言う。春夏秋冬、季節 ごとにはっきり別々の色彩に染まる山々や田畑、それらに溶け込んださまざまな 草花、それらがもたらす恵み、全部が好きだと言う。それならずっとここにいれば いいのに、と菊は思っても言い出せない。故郷を捨てることの難しさは菊にも わかる。だからこそ菊は戻ってきたのだ。長い沈黙があって、色づく前の青い 稲が風に煽られてさわさわ鳴る音と夏の終わりを告げる虫の声だけが聞こえて いる。「…今年の稲刈りにベールヴァルドさんはもういないんですよね」自身に 納得させるように菊はつぶやいた。ベールヴァルドは否定も肯定もしない。ただ 黙ったままだ。「たまにはここのこと、思い出してくださいね」それが菊に言える 精一杯だ。あとは何も言葉が思い浮かばず自分の家に戻ろうとした瞬間、その 手にベールヴァルドの大きな手が覆うように重ねられる。「ベールヴァルドさん?」 座っていても見上げなくてはならない高い位置にある顔をまっすぐ覗き込むと、 ベールヴァルドには似合わない弱気な声で菊に告げた。「…嫁さ来ねが」菊は 驚くより何より「私、男なんですが」ともしかしたら誤解されていたかもしれない 事実を答えなくてはならなかった。「知ってだ」「…ですよね」奇妙なやり取りを してると思う。長男として嫁探しをしなきゃいけないのになんで嫁に行かなくては ならないのだろうと菊は半ば他人事のように考えている。ニュースで聞いたところ スウェーデンでは男同士でも結婚出来るらしいが、散々迷った末に菊が「…孫の 顔とか、見せなきゃいけないし。田んぼとか、守っていかないと」と曖昧に答えを 濁すと「ん、わがった」とベールヴァルドはあっさり引いた。菊は少しほっとする。 もしどうしてもと乞われたら大変だった。あなたを好きじゃないので、と嘘をついて でも断らなければならない事態はとにかく避けられた。たぶんベールヴァルドの ことは好きだった。だけど諸々のことが遠く離れたスウェーデンまでの道のりを 邪魔をしていたのだ。遠い遠い、彼の母国。それから数日してベールヴァルドは 旅立っていった。背の高い働き手が減っての稲刈りはやや骨が折れたが来年は 従兄弟が戻って田畑を継ぐというので次からはマシになるだろう。冬には菊の 妹もいつの間にそんな相手を作っていたのか結婚して半年後には来年伯父に なることも判明した。初孫だと菊の両親は大いに喜んだ。いいニュースが続く なかで菊は田舎に帰ってから十三回目のお見合いに失敗した。原因はわかる ようでよくわからない。ベールヴァルドが帰国して一年が経とうとしているある日、 菊の父は唐突に菊のパスポートを目の前に放り投げた。うだうだしてるぐらいなら さっさとスウェーデンに行ってしまえ、ということだった。確かに義弟となった妹の 夫は元々農業従事者でトラクターの扱いも菊よりずっとうまかった。跡継ぎとして これ以上の人材はないだろう。とは言え今更ベールヴァルドを追いかけていって 何をしろというのだと遠い遠い国を思う。ベールヴァルドの決死の告白を菊は己の 感情からではなく、己を取り巻く環境のせいにして切り捨てたのだ。ひどいやり方 だったと自身でもそう思うぐらいだ。きっとベールヴァルドは幻滅したに違いない。 いっそのことあのまま東京でサラリーマンを続けていればよかったとため息をつく 日々が続く。黄金の稲穂は日に日に重そうにこうべを垂れる。あの日と似ている 夕日を受けて間近に迫った稲刈りを待っている。あのときベールヴァルドが座って いた場所から彼が好きだと言った風景をぼんやり眺めているとよその軽トラが ガタガタ走っていった農道の向こうから見覚えのあるやたら背の高い男が大きな 荷物を抱えて歩いてきた。カカシにしては出来すぎで菊は立ち上がったまま呆然 とする。「今年は稲刈りば手伝いに来たんだげっど…」出たよダ○エル・カ○ル 二世、と不思議と冷静に内心でツッコミを入れながら相変わらずの強面を何だか 潤む目でじっと見上げる。バスと電車と新幹線を乗り継いで東京まで四時間。 東京からスウェーデンは飛行機で何時間かかるんだろう。でもそんなことはもう どうでもいいのだ。だってベールヴァルドはそうやってこんな田舎にまで来たの だから。「やっぱり、嫁さ来っか?」とごく当たり前のように聞かれた問いに、菊は 若干首の痛みを感じながら「やっぱり、そうすることにします」と笑った。 |