「 おっさんの遺棄は犯罪です 」



 浮遊、落下。胃袋やその内容物が持ち上がる不快感に顔を顰める暇もなく、脳みそを丸ごと宙に
置き忘れたようにあっという間に意識が遠くなる。暗転、そして空白。幸運にも再び目を開けることは
叶ったのだけれど、記憶の途切れた場所が場所だけにユーリは己が実は死んでいるのではないか
と強く疑っていた。あるいは頭を打ったか何かして目が見えなくなったのではないかと。しかし、少し
ずつ暗闇に慣れてくると、ここが窓のない部屋であることに気がつく。下へ向かうほど空気は冷たく
湿気ていた。おそらくは地下だろう。部屋の中ほどには背もたれと肘掛けのある古びた椅子があり、
よく見知った男が座っている。あれから俺、どうなったんだ?問いかける前に男が口火を切った。
「おっさんさあ、ここで青年が死ぬの見てていーい?」
 何が可笑しいのやら、笑っている。発言内容の不穏さときたらどす黒いを通り越して暗黒の域だと
いうのに、底抜けに明るい声音はまるで浮かれた春の陽気だ。悪ふざけにしたって少々度が過ぎて
いる。いいわけねえだろ、馬鹿言ってないでさっさとエステル呼んできてくれよの一音も紡げぬまま、
開きかけた口から声の代わりにユーリは大量の血を吐いた。どてっ腹の奥まで衝撃を感じたことを
思い出し、内臓まで傷ついていることを理解する。
 治療を受けるための言い訳が面倒ではあるが、この期に及んでそうも言っていられない。星喰みを
放ってこんなところでおちおち死んでたまるか。何とか気力を振り絞って辛うじてレ、と名前の一部を
呼ぶことはできた。口の両端と腹の傷から鮮血を垂れ流し、どことも知れない冷たく薄汚い床の上で
惨めったらしくのた打ち回るユーリを前にしても駆け寄るでもなくおかしなことを言い放ち、ただじっと
見下ろしていた男がその呼び声にようやく反応を見せる。
 椅子から立ち上がってゆっくり歩を進めて顔面のすぐ前に立ち、爪先を器用に顎の下に差し入れて
無理やり視線を上へ向ける。あいにく視界が霞んで表情は窺えない。どういうつもり?と男は言う。
おっさんの命は預かったって、青年言ったよね?随分棘を含んだ物言いだった。ずきずきと耳の奥に
突き刺さるようだ。なのに、おっさんよりも先に死ぬの?男が爪先を引けば重力に従ってしたたかに
顎を打った。痛みはすでに飽和状態にあり、今更痛いと感じる余裕もない。傷口がひどく熱を持って
世界中が溶けたように滲んでぼやけている。どういうつもりなのよ、ねえ?重ねて問いかける言葉は
徐々に無感情に低く地面を這い、呪詛で出来た蛇のごとくまとわりついて離れなかった。

 あれから何日経ったのか、ユーリには知る術がない。どうにか傷の手当はしてもらえたが完全では
なく止血した程度なので傷口から雑菌が入ったらしい。膿んで長いこと熱に浮かされている。失神と
呼んで差し支えない睡眠と覚醒を何度も繰り返しているせいで時間の感覚がほとんどない。いつも
喉が渇いて目を覚ます。
 昼も夜もなく、常に真っ暗な部屋には物がない。たまに目隠しもない剥き出しの便器があって男が
利用しているのを見、生き延びるためには仕方ないと這いずって近づいてみたことがあった。背中を
預けて悠々と観察する男は見世物でも楽しむような口振りでへえ、飲むんだ?と好奇心たっぷりに
尋ねてくる。今更どう見られようと構うものかとそのまま口をつけようとすると、寸でのところで制止の
手が入った。俺様、そこまで鬼じゃないわよ?と言いつつも、男は水を欲するたびバケツいっぱいの
水を浴びせるのでひどく噎せて苦しい。あるときは喉奥まで漏斗を突っ込み、腹が膨らむほど大量に
飲まされたりもした。
 何が目的か知らないが、拷問紛いの苦痛を伴う行為には事欠かない日々が続いている。便器の
水のほうがいくらかマシだと少ない唾を飲み込んでなるべく耐えている。食事もずっとこんな調子で
口に押し込まれた上、鼻を摘ままれ呼吸を阻害されるか、さもなくば悪趣味にも口移しを試みようと
するので何を口に入れられてもおとなしく飲み込むしかない。飢えとの戦いだった幼少時代には毒が
なければ雑草でも蛇でも蛙でも、火だけは通して空腹をしのいでいたことを思い出す。あれでもまだ
選択の余地があるだけ贅沢だったのだと思うと、昔は嫌いだった苦くて固い葉っぱも無性に恋しい。
 売れ残りの酸っぱい林檎だって滅多にないご馳走だった。甘く煮て林檎のパイにしたらさぞ美味い
だろう。あとは飾り切りしたいちごを乗せたケーキ、果物たっぷりの手作りクレープ。甘いの苦手なん
だけどお…なんて愚痴を零していたのは誰だったのか。夢を見て思い出したって、今では遠すぎて
届かない。

 さらに日にちを重ねると、水分を含まされても戻してしまうようになっていた。男の介助なしには生を
保てないほど弱ってきている。これまでと打って変わって男は何かと世話を焼く。それでも根本的に
命を救おうとする行動はなく、時折湿らせた布でくちびるを濡らすぐらいで食事はおろか水も満足に
得られてはいなかった。意識のない時間が増えて、飢えも乾きもユーリにはわからないことが幸運で
さえある。もはや痛みも熱も他人事のように遠い。一方で死の足音が日に日に近づいてきていること
だけははっきりと感じている。
 そういえば近頃無体な真似はされていない。どうしたのだろうと考える猶予もないまま、重く睡魔が
襲ってきた。せめてまだこの部屋に留まっているのか知りたくて目の動きでぐるりと男を探した。男は
思ったよりずっとそばにいた。だが、表情を見分けることもできない段階まできている。嗄れた喉から
声が出ず、水面の金魚のごとくはくはくと小さく口を動かした。
 ごめんな。
 これが最期かもしれない、届けばいいのだが。根こそぎ意識を奪おうと襲いかかる睡魔に再び身を
任せる。揺さぶられているのは何故だろう、とても不思議に思いながら。

 久しぶりの光に網膜を焼かれて咄嗟に手のひらで陰を作ろうとしたが、ろくに動かない。薄目で窺う
世界に愛らしい桃色ときらきらと眩しい金色の天使がいたので、俺って天国に行けたのかと素直に
驚いていると、手加減なしに頬を打たれた挙句、涙混じりながらたいそう叱られてしまった。この手の
冗談が通じないところもやはり本物らしい。つまり、願望を投影した理想の天国ではなく、世知辛くも
愛すべき現実の世界であり、要するにユーリはまだ生きていた。
 手遅れの重傷者に治癒術を施しても効果を為さないのと同じで、長らく劣悪な環境に置かれていた
肉体は世界最高の治癒術を以ってしてもすぐさま癒せるわけではないそうで、危機に瀕した世界を
どうにかしたくても、すっかり衰えた体力ではついていけない。どうせ足手まといになるだけだ。渋々
しばらくの絶対安静を受け入れ、仲間が準備に東奔西走するあいだ余計な真似をしないよう見張り
役に、レイヴン。
「なんで、みんなに言わないのよ」
 行方不明になっていた期間の諸々をユーリは誰にも告げないままだった。それが不満らしく、腕に
刺さった点滴が外れるのも構わずベッドの上に馬乗りになり、首に両手をかける。窒息させるもよし、
頚椎ごと折るもよし。その命はレイヴンの心次第だ。だって、と苦しげに表情を歪め、それでも懸命に
声を絞り出す。
「あのとき、答えられなかった」
 レイヴンの命は凛々の明星が預かった。確かにそう言ったものの、もし自分が死んだ場合どうする
のかまるで考えていなかった。カロルあたりがずっと所有権を握っていくものだと勝手に思っていた
ので、自分ひとり死んだところで影響があるとは思いもしなかった。だから何も答えられず、沈黙する
しかなかった。それがレイヴンの逆鱗に触れたらしいことは薄々察していたので、さまざまな仕打ちも
仕方がないと腹を括り、結果ああいうことに。
 さしものレイヴンもあのねえ青年…と呆れ声だ。おっさん、危うく殺しちゃうところだったじゃないの。
加害者のほうがなんだか泣きそうな顔をしている。ユーリはまだ思うように動かせない手をぼさぼさ
頭に伸ばし、声にならぬ声で許しを乞うたときと同じ、しょぼくれた眉尻でごめんなと繰り返した。
「絶対に置いていかないって約束して、そしたら、許したげるから」
 三十五にもなる男があまりに惨めったらしく必死に縋りつくので、努力する、とだけ答えれば、ああ
もういっそ殺したいわ…などと物騒なことを呟きながら、至極不満そうにレイヴンはベッドを下りた。





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