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快適さとは程遠いただ横になれるだけの粗末な寝台の上、耐え難い苦痛に 襲われてなす術もなく震えるままだった。その苦痛の正体は強烈な渇きにある。 隅には便器に並んで洗面台もしつらえてあり、水道は自由に使えたがもう何日 ものあいだ、緩んだ蛇口から水滴が規則的に落ちるのみで使用されることは なかった。はじめの頃は頻繁に、それこそ浴びるような量でもって菊の喉を潤した 水はほんの一時しか持たずに更なる渇きをもたらした。このままでは死に至ると わかっていても救われる道はひとつしかない。ガチャリと重い金属音は鳴り、 足音は顔を上げようともしない菊の元にまでやって来た。 「そろそろ食事をする気になった?」 飽きもせず繰り返される質問に吐き気がした。視界に入っていないからこそ 独房に入ってきた瞬間から鼻をついていた血の臭いは口を開けばさらに強く なった。返事をしないでいると、焦れたイヴァンは髪の毛を掴んで無理やり顔を 上げさせた。菊の黒い瞳に、寒々とした氷色の瞳が至近距離で強引に映り 込む。 「ご冗談を」 弱りきった声がそれでも強情に拒否を伝えている。瞳は剣呑な敵意をむき出し にして隠そうともしない。手枷によって拘束されていなければいつ反抗しても おかしくはない有様だ。投げ捨てるように頭から手を離し、やだなあ君のために せっかく用意したのにとの言葉に従って彼の部下が連れて来たのはまだ あどけなさを残した十代の少女で、自由にされるとイヴァンにも菊にも等しく 畏怖の目を向け、途端に恐慌を起こして喚いた。化け物と呼ばわり、傍らに 放置されしなびた青い林檎を投げつける。林檎は壁に当たって菊のそばに 落ちる。そうだ、化け物だと証明するように痙攣の止まらない指先で触れて みればそれは瞬く間に塵と消えた。ほらねとイヴァンは笑う。ある時を境に菊の 体はそういうものになった。弱い生を奪い、己の糧とする。確かに林檎一個分 だろう、菊の渇きはいくらか紛れはしたが根本的な問題は解決しなかった。 食べ物の摂取もこのような小さな補給も大きな意味はない。怯えた少女は この目を疑う光景にますます混乱をきたしてついには腰を抜かしへたり込んで しまった。イヴァンは後ずさる少女に向かい歩を進め愉快そうに距離を縮めて いく。やがて壁際まで追い詰めると防御を取ろうとした手を掴む。菊と同じ生き物 であるはずのイヴァンの手だったが生命力のある人間は一瞬で消えたりは しなかった。代わりにそのまま顔を近づけ、ためらいなく噛み付いた。尖った 犬歯は皮膚を突き破りみるみるうちに甘い血を吸い尽くす。これこそが彼らの 真の食事だった。あとに残されたのは渇いた皮と骨で出来た残骸。菊は静かに 目を伏せてつかの間その死を悼み、自分に与えるはずだった食事はもうないの だからイヴァンは独房を去るだろうと思ったのだが一向にその気配がないことに 違和感を覚える。それどころかイヴァンはまた菊のほうに歩み寄り、毎日食事を 欠かさない満ちた力で強引に押さえつけた。うろたえながら何を、と口にした 頬に大きな手のひらが添えられ近づいた顔に嫌でも目的を察した。絶えて久しい 食事を最後に取ったのもこういう形で無理やりにだった。 「やめてください!」 そう叫んでわずかな力を振り絞り、手枷の両手で突き放しても元から体格に 差のあるイヴァンの体はびくともしなかった。けれどなおもどこにそんな体力が 残っていたのか、暴れる菊の細首を骨も折れよとばかりに両手で絞めるイヴァン は、打って変わって悲しそうにこのままじゃ君、死んじゃうよと言った。首を絞めて 殺そうとしているのはあなたのほうではないのか、そう思いながら菊はその手を 振り解こうともせず憎しみのこもった目は変わらず光り続けていた。 「…僕は君を愛したかったんだ」 つぶやきが落ちて不意に手が解かれ、菊の喉はひゅうと鳴って大きく息を 吸い込んだ。忌まわしくも人の血をすするしか生きる道のない命など捨てて 構わなかったが勝手に生きようとする体は歓喜してせわしなく呼吸を繰り返す。 菊は以前からイヴァンのことを愛してはおらずかえって憎悪は増した。同じ生き物 になったなら愛し愛されることもあると思ったとしたら大きな間違いだった。しかし イヴァンが食事を取り続け、菊がそれを拒み続ける限り抗えない渇望が憎しみと 共に菊の目をイヴァンに向けさせる。執着の逆の位置にあるのが無関心ならば、 それも立派に愛の類に思えた。 「私を愛したい?それならそうと、ぐだぐだ言っていないでさっさと愛せばいい」 イヴァンの胸倉を掴んで言い放ったその目の強さに言うべき言葉は脳裏から 消えてしまった。正しい愛しかたなど知らない。なりに合わない迷子のような 顔をしたイヴァンのまぶたに菊はくちびるを落とした。こうすれば良かったのかと 合点がいったようにそれを真似、もっともっと、もっと愛したいと縋るように菊の 服を脱がせていく。菊が永遠に同じ生を望まないなら、このまま愛しながら殺す のもいいと思った。 |