「 不協和音重ねていびつな 」



 練習もいいですが、くれぐれも無理はなさいませんようにときつく言い置いて
馴染みのピアノ講師は帰っていった。菊はあまりピアノが得意でない。ピアノは
良家の子女のたしなみだが、庶子であった菊は目をかけられず教育も熱心で
なかったこともあって今でもこうして機会を設けては知人であるローデリヒを
招いて初歩から学んでいる。彼が去ってなおもしばらくは拙いメロディが室内に
響き続け、忠告の通りほどほどにしてくれないかと思っているとやがて己の
力量に耐えかねたように楽譜を放り出して菊は思いがけぬことを言い出した。
ねえルートヴィッヒ、あなたはピアノが得意でしたよね。そう言って茶目っ気の
ある表情で手招きをして、代わりに弾けと言うのだ。昔戯れに弾いて見せたのを
覚えていたらしい。腕を引っ張られるままに同じ椅子に座り、なんでもいいの
です、さいたさいたでも猫踏んじゃったでもと子供のように無邪気にせがまれて
仕方なく弾きだしたのは身に余る上等のピアノにふさわしい月光の第一楽章
だった。久しぶりのことで自信はなかったが菊は俺の肩にもたれ、目を閉じて
息をも殺して聞いていた。音はあるのに不思議な静けさがある。心細ささえ
感じるけれど、触れ合うぬくもりが確かにあった。終盤に入り、菊は消え入り
そうな小さな声でつぶやいた。このままずっとこうしていたい…爵位なんか早く
誰かに渡してしまいたい…。菊が爵位など欲していなかったのは子供の頃から
明らかだった。しかし先代は他に男児に恵まれず、代々続く本田伯爵家を次代に
引き継ぐには菊しかいなかった。伯爵としての気忙しい日々は確実に体の丈夫
でない菊を蝕んでいる。その命が長くないと踏んでか親族連中は次から次へと
縁談を持ち込んでは一刻も早く結婚を、そして跡継ぎをとせっついてくる。菊の
感情など二の次だ。誰かが菊の命を縮めているのだとしたら、彼らこそがそう
なのだ。考えれば考えるほどうんざりする現状にこのまま美しい旋律を弾き
続けることができなくなって、俺は叩きつけた不協和音を最後に演奏を止め、
何事かと驚く菊を力強く抱きしめた。動揺しながらも腕の中で次第に緊張が
ほどけていくのがわかる。菊はきっと微笑んでいる。ねえルートヴィッヒ、私が
この屋敷のあるじでなくなっても一緒にいてくれますか?そんなはじめの頃から
答えの決まっている質問をする菊に、俺は何度も頷き抱きしめる力を一層強く
するのだった。





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