|
受けた菊のため軍医のいるはずであった粗末な小屋へと駆け込んだが既に退避 したあとらしく何人か身を潜めている兵士はいたものの目当てのコーンブルーメン ブラオはどこにも見当たらなかった。ルートヴィッヒは一目でそれを承知しながらも 受け入れがたく、彼らひとりひとりをチェックしていき最後にらしくない舌打ちを した。そうして医師の不在を知り、ルートヴィッヒの後ろをがむしゃらについてきた フェリシアーノは絶望的な気持ちに襲われ、力を失い膝をついた。最初のうちは 気丈に自力で歩もうとした菊は次第に足がもつれてフェリシアーノの助けを必要 とし、じきに意識がなくなっていった。すべての体重を預けた菊は死体のように 重く、その事実ごと投げ出したい思いにかられて涙が止まらなかった。目に痛い ほど清冽な軍服は今は赤に染まっていて、その白ささえ憎らしい。自分たちは 国であるから肉体の停止が即、死に結びつくとは限らなかったが人と同じように 生きている以上、死ほど恐ろしいものはない。青ざめた頬を血に汚れた手で 愛しく撫でると、ようやく途切れた糸がつながったように意識を回復させた菊は 震える腕を伸ばしてフェリシアーノに泣かないでと微笑みかけて涙の跡を拭う。 それが切なく、小作りな手を取り大切に胸に抱えるとそのあいだ熱心に棚を 探っていたルートヴィッヒがランプを見つけて戻ってきた。菊の軍服をたくし上げ、 ぼんやりと頼りない灯りがそれでも今まで見えなかった傷口を照らすとまずい ことに腹にあいた穴は背中に貫通していなかった。手術をしなくてはならない。 医術の心得のあるルートヴィッヒだったが、器具も医薬品も満足には残されて いなかった。麻酔はないが、いいか?と静かに尋ねると菊はええ、お任せします と強い口調で答えた。フェリシアーノと兵士で菊の四肢を押さえこみ、巻いた布を 噛ませ、煮沸したナイフでルートヴィッヒはその腹に刃を立てた。熱さとも痛みとも つかぬ強烈な違和感があり、同じく煮沸した金属片で体液にぬめり光る内部を 探っていくとそれが吐き気を呼んで堪えようとしても堪えきれず反射的に体を 動かしてしまう。兵士の力は菊を思って遠慮がなかったが、ごめんねごめんねと 謝罪を繰り返すフェリシアーノはまるで力が入っていなかったのだ。元はと言えば フェリシアーノをかばっての傷だ。罪悪感がそうさせるのだろう。フェリシアーノ! と怒鳴りつけると身を竦ませたが効果はない。焦れて別の兵士に代わらせ、 粉末の消毒剤を使いながら手術を続けるとほどなくして小さな弾丸を見つけた。 ほとんど臓器を傷つけていなかったのは幸運としか言えない。取り出して、本来 縫合用ではない糸と即席の針で傷口を縫い合わせればおしまいだ。三十分 ほどでことは済み、ルートヴィッヒは救援を呼びに単身鉛の雨のなか外に飛び 出した。救援が来るまでのあいだ見張りを仰せつかったフェリシアーノは震える 手で固く銃を握り締め、人が変わったような集中力で外をじっと見つめていたと いう。術後のことは死の近場で眠っていた菊があとから聞いた話だ。六十年もの 月日が流れて、薄らいだ白くいびつな縫い目の跡が着替えの際に見受けられる と当時のことをあるいは良き思い出のように語り合うことがある。喪失の恐怖から 逃れられた安堵感と共に、味方であった自分が負わせた傷を喜ぶ暗い執着が 確かにあって、二人はそこにくちづけずにはいられない。願わくば鈍い痛みが いつまでも菊を苛み続けばいい。それが愛のあかしかもしれないのだから。 ※コーンブルーメンブラオ:ドイツの国花・矢車菊の青。衛生兵などの兵科色。 |