「 管理人イヴァンの場合 」



 アパートの大家であるイヴァンは最上階に部屋を構えているが、昼間は宅配便
などの預かりや不審人物の侵入などをチェックするため一階の出入り口すぐ脇の
管理室に詰めてことが多い。管理室ではテレビを見たり読書をしたり、住民は
大学生や社会人がほとんどで日中はそれほど出入りが激しいわけではないので
大体はどうやって暇をつぶそうかと頭を悩ます日々だが、その日は特別珍しい
来客が窓をノックする。ひょいと出てきた小さな手は窓の下に引っ込む。来客は
イヴァンの腰の高さほどもない壁に隠れてしまう背丈の持ち主のようだ。その
人物にイヴァンは心当たりがある。カラカラとサッシを滑らせて窓を開け、下を
覗き込むと予想通りの小さなお客さんが首が痛そうなぐらいまっすぐ上にある
イヴァンを見上げている。五階に住む菊という子だ。兄弟で挨拶に来たときは
礼儀正しくお辞儀をしておとなしい子だと思っていたのに実はとんでもない
わんぱく小僧でベランダの柵を伝って隣室に侵入してみたりと数々の逸話は
イヴァンも聞き及んでいる。お外は危ないある!お前みたいなかわいい子は
人攫いに食われちまうあるよ!と脅しをかけてもちっとも効き目のない様子で
この日も何か用かな?と毒気ない笑みで迎えると管理人さんにお土産ですと
どこからか摘んできたらしいたんぽぽを二輪差し出してきた。イヴァンは菊が
外に出て行く姿を見ていない。どこか秘密の抜け道があるのか、それとも低い
背を利用して忍者のようにこっそり正面から出て行ったか、どちらにせよ対策が
必要だなと内心で思いつつもありがとうとせっかくの土産を受け取ることにした。
使っていないコップに水を入れ、もらったたんぽぽを挿す。イヴァンが大好きな
真夏の花に似た鮮やかな黄色。飾り気のない部屋に少しばかり生気が宿った
気がする。これから遊びに行くときは僕にも声をかけてくれないかな?と尋ねると
菊は管理人さんも一緒に遊びたいのですか?と大きな黒目をくるんとさせて、
純粋で愛らしい仕草で首を傾げる。イヴァンはそうだよ、一緒に遊んでくれると
嬉しいなあとつやつやとした癖のない黒髪を大きな手でそうっと慎重に触れて
撫でる。菊は猫の子がそうしてやると気持ち良さそうに目を閉じるようにしばらく
イヴァンの手に任せていたが、子供なりに何か悟ったらしくやや沈んだ声で
管理人さんは寂しいの?と聞かれ、神妙な表情でそうなんだ、いつもひとりで
みんなが帰ってくるのを待ってるから寂しいんだよと応えると一瞬でぱあっと、
私と一緒ですね、じゃあ一緒に遊んだら寂しくなくなりますね!と大輪の花が
咲くように笑った。菊の話によれば哥哥はいつも『おしごと』で帰ってくるのは
夜遅くだし、隣のお兄ちゃんは夏休みなのに時々『だいがく』や『あるばいと』に
行ってしまうのでとても寂しいのだという。寂しさを思い出してかしゅんとなった
菊に今日は何して遊ぼうか?とイヴァンが話を切り替えるとわずかに潤んだ
目を期待にきらきらと輝かせて見上げる。
「肩車!肩車してください!」
 かくしてイヴァンは菊を肩車して二人で遊ぶことになったのだが、見たこともない
目線の風景に菊は始終キャッキャと歓声をあげて喜んでくれている。ちょっとだけ
このまま走ってみるときゃあ!と一層大きい声をあげてとても楽しんでもらえて
いるようだ。菊の昼食をわざわざ店から届けに来た耀がそれを悲鳴と勘違いして
駆けつけるのはその直後のこと。アイヤー!天井!頭!ぶつけるある!危ない
ある!さっさと下ろせある!と周囲の音声がきゃあきゃあからギャアギャアに
変わるのはもう間もなくだ。





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