「 左手で招く 」



 …花を愛でる趣味など似合いもせぬ無粋な人間ではありますが、花屋の店先でキリッ!としている
黒い天鵞絨の毛並みのお猫様が雄か雌か、どうしても気になったのでございます。もしご健在ならば
立派なωを拝見できたらいいなと。それで競馬新聞を広げた花屋のご主人に声をかけてみると「よく
聞かれるんだけどこの猫、うちのじゃないんだよねえ」とのこと。なんとフリー!改めてご覧ください、
野良とは思えないこの見事な毛艶!嗚呼触りたい!「触っても大丈夫ですかね?」と主人に聞いて
みたところ「さあ?本人次第じゃない?」と。なるほど、それもそうだ。そんなわけで、ご本人様ならぬ
ご本猫様に「触ってもよろしいですか?」と直接許可を得ようとしたのですけれど、人間めには解せぬ
難解な猫言語にて力強く「ニャ」と仰られまして。花屋のご主人曰く「俺に触りたかったら『ここの花を
買ってやれ』だってよ?」だそうで。うわあ詐欺っぽい!とは思ったんですけどね、騙されたと思って
試しに買ってみたら本当にお猫様のほうからスリスリってしてくれたんですよ!こりゃやられた、この
花屋は商売上手だなと思いましたね(笑)でも本当に野良猫らしいんです。勝手に来て、勝手に営業
やってるんだよねって花屋のご主人も…

 確か先月の頭だったか、若い男性客とそれらしきやり取りをした記憶はあるのだが、特別珍しくも
ない猫好きの若者としか思ってなかった件の客が、その界隈じゃそこそこ名の知れたブロガーだった
らしい。冴えない花屋の売り上げに貢献する営業部長だの、リアル招き猫だのと店先の猫目当ての
客が徐々に増え、時々撫でる程度の顔見知りではあったのものの、お礼ぐらいすべきかと缶入りの
少々お高いキャットフードを献上したのは先日のことである。
 ところがどっこい。孤高の黒猫はツンとそっぽを向いた挙句、くしゃみのような小さな破裂音を立て
なさる。鼻で笑ったのだろうか。まるで俺が好きでやってることだ、勘違いされちゃ困るんだよとでも
言いたげなふてぶてしい態度である。条件を満たして正当な権利を得た者に撫でることは許しても、
そうでない人間の施しなどするりとすり抜けて見向きもしない。
 そうかと思えば客足が絶えて閑古鳥のひとつも鳴くと、携帯ラジオの隣にちょこんと座り、赤ペンで
印をつけている様子を興味津々といった表情で見つめてくる。たまたま客が集中すればいつの間に
やら姿を消し、頃合を見計らって戻ってくる。絶妙な距離感を知っている賢い猫ではないか。こうして
馴れ合いを好まぬ四つ足の知り合いを、レイヴンはすっかり気に入ってしまったのだった。
 商店街の仲間や常連客の話では、この一帯を縄張りとする野良猫だそうな。野良にしては確かに
毛艶のいい黒猫である。やはり誰ぞ飼い主なり飼い主候補なりいるのではと思うのだが、毎朝店を
開ける時間帯になるとどこからともなく現れて店先で寛ぐのが日課で、店を閉めるまでほとんど移動
しない。その営業テクはどこで覚えたのやら、タダで触ろうとする輩には遠慮なく爪を立てて抗議し、
花屋に金銭を支払い、晴れて客となった者には甘え方を知り尽くした飼い猫よろしく甘えてみせる。
なので猫が好きであれば見物客は当然、花を買うことになる。食っていけるならそれでいいぐらいの
いい加減な花屋であるにも拘らず、黒猫のおかげで順調な帳簿にそろそろ罪の意識が顔を出した。
そもそもレイヴンは花に特別な思い入れなど何もないのだ。

 友人夫婦が事故で死んだ。正確には大学時代の片想いの相手で、友人のふりをしていた相手だ。
旦那は大学の同期、花屋は彼ら夫婦が遺したものだった。親類縁者のいない彼らの遺産は、長らく
引き取り手も見つからないまま空き店舗になっていた。適当に選んで就職した先がたまたまエリート
コース、三十路手前に差し掛かって他人の羨む地位や名声、収入、その他諸々を手にしても、心に
ぽっかり開いたっきりの穴の塞ぎ方がわからない。好きだと言ってしまえばよかったのか、言っても
迷惑でしかなかったから言わないでよかったのだとか、ぐるぐる考えたところで全部後の祭り。残った
のは虚しい空っぽの生活。そんなときに思い出したのは友人夫婦の夢だった空っぽの店舗だ。花の
知識など皆無に等しい。それでもいいからとにかく店を開けてみよう、そう思った。
 運のいいことに近場に花屋がなく、なんとか潰れない程度の売り上げがあった。花の名前を覚え、
花の特徴を覚え、そのうち誰かのための花束を頼まれてもいいようにと、持ち前の器用さで資格を
取ったりもした。毎日の仕入れから閉店後の後始末までそれなりに忙しい生活に追われる。これで
心の穴は塞がったかというと、これまたなんとも微妙なところ。それでも以前よりマシかもしれない。
そこへ例の黒猫が現れたのだ。

 あるとき常連のおばあちゃんと茶飲み話にかまけていると、仏壇に活けるという花に黒猫は珍しく
にゃあんと擦り寄った。ユーリはお花が好きなのよねえ、と頭を撫でるおばあちゃんの手をおとなしく
受け止めている。レイヴンは驚いた。これまで誰に聞いてもこの猫の名前を知らなかったのに。
「この子、ユーリっていうの?おばあちゃんとこの猫?」
 しかし答えは否。だいぶ前にユーリと呼ばれているのを見たことがあるだけで飼い主のことは何も
知らないし、特製の猫まんまにも手をつけてくれないのだとか。ただ、花があると寄ってくる。可愛い
猫ちゃんだし、ちゃんとした飼い主さんがいるだろうと思ったのだけれど、違うなら心配ね、病気とか
怪我とか、そうそう、特に事故ね。
 事故。何気ないその一言が特別な響きを持ってレイヴンの耳に届いた。レイヴン自身、車の前に
飛び出してきた猫を危うく轢きそうになってひやりとした経験がある。ブレーキが間に合わなかったと
思しき遺骸を見かけたことだってある。毎日店先に座るあの猫がもしそんなことになったら。葬式を
出して、火葬して、お墓を作って、死を悼んで。自由にひとりで生きるあの黒猫は、誰がそこまで面倒
見るんだろう。いったい誰が、あの黒猫の生きた証を。
 おばあちゃんの手をすり抜けた黒猫を抱き上げてみようとしたら、思いきり噛みつかれてしまった。
辛気臭いツラは大っ嫌いなんだよ、出直して来な。フシャアと牙を剥いて睨んでいる黒猫は、そんな
風に言っている気がした。

 好きな花を手向けてくれる墓があっても、いつか手向ける人間がいなくなったんじゃあ意味がない。
今時弔いの形にもいろいろあるもので、好きな花や木の下に埋葬するのが流行っているとテレビで
見たのをきっかけに、レイヴンは預かっていた友人夫婦の遺骨を任せることにした。花の手入れも
やってくれるそうだが、たまには顔を見せがてら季節の花を差し入れてやるのもいいだろう。将来に
向けてひとつ目標ができた。
 遠地まで出かけたせいで、一泊分の空白があった。臨時休業の張り紙を読めるはずもない黒猫が
気になって立ち寄ってみると、折からの雨に降られて濡れそぼる黒い毛玉が店先からこちらをじっと
睨んでいる。てめえ、どこに行ってやがったと言わんばかりにご機嫌斜めでらっしゃった。
 濡れた体に寒風が堪えるらしく、抱き上げても今回だけはやぶさかではない模様。急いで家に連れ
帰り、風呂場で冷えた体を温めてからふかふかのタオルで水気を拭き取ってやる。すると、ふんわり
した毛並みが現れた。普段よりもこもこで、レイヴンに対する剥き出しの険も心なしか和らいでいる。
両手を傷だらけにした甲斐があったというものだ。
 見慣れない人間の住む部屋をスンスンと嗅いでまわり、ここがいちばん心地いいと見抜いたかして
やがて布団の中に潜り込んでくる。移動と風呂での格闘で疲れ果てたレイヴンがすでにうつらうつら
していた寝床だ。体温が移って温かいのだろう。胸元で丸くなった黒猫は安心しきって、ゆるゆると
撫ぜる手のひらに警戒することもなく、うっとりと目を閉じる。いつもと違った手触りといい、油断した
態度といい、まるで別猫のようだ。温かくて、ふにゃふにゃ柔らかい。
 ふと賭けをしてみようと思いついた。彼に似合う首輪を探して、もし彼が嫌がらなかったら、一緒に
暮らしてみようかと。

 …さて、以前ご紹介した花屋の野良猫のことを覚えていらっしゃいますでしょうか?先日あの野良
営業部長に飼い主ができたと聞きまして、早速撮影に赴いた次第でございます。ご覧のとおり、首に
赤いリボンが!キリッとしたお顔に可愛らしいリボンはいわゆるギャップ萌えというやつですかね?
これはあざとい(笑)。新しい飼い主さんはやはり花屋のご主人でして、念願のωはご主人から撮影
NGが出てしまいましたが、有意義なお話が聞けました。「優しい飼い主さんでよかったね」と以前にも
増して毛艶が素晴らしい黒猫さんに話しかけてみたんですが、どうも機嫌が悪いようで引っかかれて
しまって…。飼い主さん曰く「照れてる」らしいんですけどね、そのご主人まで引っかかれていたので
…元野良のお猫様を飼うのは愛情と根気が必要のようです。何はともあれ、お幸せに!





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