「 ハラヘリヘルキャット 」



 いつの間にやら預かり物の姿が見えなくなっていた。ふんわり甘くてピリッと辛い、接待の手練
手管を心得たプロフェッショナルなお嬢さんがたに囲まれてデレデレお楽しみ中だったレイヴンも
にわかに焦りだす。アレは一応、ドンから直々に世話を仰せつかった代物。不手際が露見すれば
拳骨ぐらいでは済まない。歓談の中座を詫びるのもそこそこに泡食って薄暗い店内を探し回って
みれば、時すでに遅し。駆け出しのバーテンと思しき年若い被害者が迷子のソレに熱烈な接吻を
受けている場面にがっつり出くわしてしまった。
 ぴちゃぴちゃくちゅくちゅいやらしい水音と、むわっと強く香る何やら得体の知れない甘ったるい
におい。不憫な店員の口元がようやく解放されたとき、両者のあいだにとろりと唾液の糸が引く。
強烈なご挨拶に店員のお口はポカンと開きっぱなし、耳たぶまで真っ赤にして呆然と立ち尽くして
いる。これがファーストキスでないことを祈るばかりだ。そして涎でべたべたな口周りを満足そうに
拭う、俗に言うどや顔をした預かり物。その正体は「よお!」とご機嫌よろしくレイヴンに向かって
手を振る、赤い角の生えた奇妙な生き物である。
 しかしながらソレの角は魔物が持つ禍々しい代物とはまるで違って、ある種アクセサリのような
印象を受ける宝石質の美しいものであるのだが、如何せん角は角。角の生えた人間などこの世
には存在しないのだ。
 人様に迷惑かけちゃダメって言ったでしょ!怒られんのはおっさんなの!ときつく叱りつけると、
ソレはなんだか哀れっぽくシュンとしおれて「腹減って我慢できなかったんだよ…」と零した。空腹
だったなら女の子のために注文した果物の盛り合わせでもつまめばよかろうに、果物を無視して
あんな行動に出た。ということはコレの訴える空腹は本来の意味ではなく、別の飢餓感が働いた
ことを指す。そこも含めて世話を言いつけられているので、もしさっきの店員が心の傷やら何やら
負ったのならそれはすなわち、レイヴンの職務怠慢の証拠。ただでさえレイヴンはソレの食事を
まともに与えていないのだ。
「なあおっさん、頼むからちょうだい…」
 自分より上背もあるくせに、妙に可憐な謎の生き物が潤んだ上目遣いと甘えた声音でおねだり
した挙句、肩口に顔を埋めてすりすりと飼い猫のように懐いては「おっさぁん…」と耳のすぐ近くで
生温い吐息混じりに囁いた。
 見てくれだけは極上品だから余計にタチが悪い。コレが放つ甘い香りに酔いそうになりながら、
レイヴンは心の内側で懸命に魔除けの呪文を唱える。コレはオス、コレはオス!オスで、古代の
魔物(?)で、しかもおっさんの精気を狙ってんのよ。所詮はおっさんの体が目当てなのよ。念の
ためもう一度繰り返すけど、コレはオスだから!こうしてぐらぐら揺らぐ足元を土台から組み直し、
鋼鉄の精神でもって絡みついてくる魔性の生き物を全力で引き剥がす。だっておっさん、ノーマル
なんだもの!

 事の発端はレイヴンが持ち帰ったおんぼろの壷だった。人間、飲み食いすれば嫌でも出るもの
出るわけで、それが運悪くダングレスト滞在時の定宿どころか街までもたないタイミングであった
ため、仕方なくそこいらの草薮で済ませてしまおうとちょちょいと穴を掘ったところ、丸みを帯びた
人工物が土の中から顔を出したのだ。
 魔導器とは主に地中から発掘されるもの。ひょっとしたらと思い、面倒な自然現象は他の場所で
済ませて再度掘り進めると、それは魔導器でもなんでもなく形状を保っていることが不思議ですら
ある、亀裂だらけの小ぶりな壷。表面にミミズがのたくったような模様があるが古代文字のようで
レイヴンには解読不能だ。ひとまずユニオン本部にでも行けば遺構の門なり何なり、誰ぞ読める
者がいるかもしれないと持ち帰ることにした。古代文字が刻まれている以上何らかの遺物である
可能性が高く、放置は芳しくない。このとき余計な心配なんかせずおとなしく埋め戻しておけばと
今更悔やんでも後の祭りだ。結局、遺構の門の解読を待たずして開封するに至る。酔った勢いで
うっかり封を解いてしまったので。
 途端、もやもやと白い煙が部屋に充満してウェッホウェッホと咳き込みながら何が何だか混乱の
極致だ。しかし次の瞬間には煙はきれいさっぱり消えて、あとに残ったのはまったく見覚えのない
人間、のようなもの。いくら不意を突かれたとはいえ侵入者にも気づけないほど呆けていたとは。
おまけに頭部の両側に赤い角ときてる。ああこれ死んだわ、と思ったのは人生何度目だったか。
幸い、異形の生き物は人肉を餌とする魔物ではなかったものの、開口一番「おっさん、おいしそう
だな」と舌なめずりしたソレはある意味正しくレイヴンを餌と見なした。
 ユーリと名乗った謎の生き物は淫魔という存在らしい。正しくはかつて魔族と呼ばれた、人間と
魔物の中間に属する少数民族。現在でいえばクリティアみたいなもの。けれども彼ら魔族は今や
絶滅済みの生物だ。クリティアとの違いは人間でも魔物でもない故にそのどちらにも相容れず、
彼の仲間には人間に害を与える者もいたこともあり、古代ゲライオス文明が強大な武力を手に
入れた頃には魔物と同列のものとして、ほとんどが人間の手によって駆逐されてしまったそうな。
なら何故彼だけがこうして消滅を免れているのかといえば、封印という形を取って死に等しい永い
眠りに就いていたのを、どこかの酔っ払いが調子こいて叩き起こしてしまったせい。いやほんと、
どうもすみません。
 目覚めたばかりの彼は冬眠明けの熊のごとく腹を減らしきっていた。何しろ千年以上眠っていた
のだ、その飢えたるや想像もできない。それで油断したというかなんというか。レイヴンはまんまと
彼の食事を提供してしまった。淫魔は淫と名づくとおり人間の不埒な欲望やら何やらを糧とする。
他の生物とは違い、人間のオスは年中無休いつでも発情可能ながら好みとか相性とかいろいろ
条件があるわけで、においで獲物をおびき寄せる食虫植物に似た甘ったるい誘惑に散々理性を
揺さぶられながら、これだけは!と男の沽券に賭けて何が何でも譲れないものだけは懸命に守り
抜いた。つまるところ、尻を。
 結論からいって、肉体的に美味しくいただいたのはレイヴンのほうだったというわけだ。そういう
趣味はないから他を当たってくれとさんざ抵抗しておきながら、いざおっぱじめてみたらこの有様
ですよ。だってあの子ってば、すっごくえろかったんだもの!

 こうした経緯から推測するに、淫はそのままの意味として淫魔の魔は魔族の魔ではなく魔性の
魔なのだろう。あの凄まじい誘惑に抗える人間など、おそらくこの世に存在すまい。アレの発する
甘いにおいは老若男女関係なく効果を発揮する。びくともしないというのであれば、そいつは男と
して終わってる気さえする。特にダングレストの荒くれどもには覿面で、そっちこっちで食事しよう
とするので公序良俗のためにも拾ってきたレイヴンが責任持って世話するようドンから命じられる
ことになったのだ。
 なんで俺様がそんなことしなきゃいけないのよと渋い顔をすると、ドンはそんじゃあ俺がもらって
いいのか?と心に何重も蓋をして早十年、本人ですらもう何が本心なのか、そもそも本心なんて
ものがあるのかどうかさえわからないのに、顔に張りついた二つの小窓からその奥底を見透かす
ようにじっとこちらを見つつ尋ねてくるものだから、何もやましいことはないはずなのにどうも落ち
着かなくてレイヴンは首を傾げる。
 あんな厄介な生き物、欲しいというなら熨斗つけてくれてやればいいのだ。ドンほどの男ならば
あの甘い罠に翻弄されることもないだろうに、何故だかすんなり頷く気にならない。アレは飢えて
なければ可憐のかの字もない。ふてぶてしい態度にぶっきらぼうな物言い、仕草だって男らしくて
大雑把としか言いようがないし、何より無愛想だ。色気はあっても素っ気はない。けれど、どこか
危ういところが多々あってそこがどうにも気がかりだ。姿が見えなくなるたびどれだけ肝を潰した
ことか。キス程度ならまだいい、変な男の精気を摂取して腹でも壊したらと思うと気が気でない。
いやいや、ドンの管理下に置くなら大丈夫のはず、だけど、ああいや、でも、ううう。諾否の返事も
なく、うんうん唸って今ひとつ煮え切らない右腕に、ドンはにやり笑って助け舟を出してやった。
「惚れた腫れたは理屈じゃねえ、てめェの体はとっくに答えを出してるんじゃあねェのか」
 ええそりゃまあ。恥ずかしながら五回の要求のうち、三回ぐらいは堪能しておりますとも。だって
青年が飢え死にしそうなんだもの!とは言い訳だ。レイヴンはいくら人助けでも男に手を出すこと
など皆無と思われる、至ってノーマルな性癖の持ち主である。もちろん初めてのことなので小耳に
挟んだ程度の知識だけで太古の時代からそうやって生きてきた相手を満足させているとは夢にも
思わない。それがとろっとろに蕩けて、誘引物質よりも甘く切ない声音でおっさん、おっさんと幼く
連呼して縋りついてくるさまは何ともいえない充足感をもたらした。
 面倒事など真っ平御免、本気の恋愛なんか要らないし、重荷になりそうな関係だったら枯れた
ほうがよっぽどマシだと割り切った無味乾燥な世界に潤いがひとつ。ユーリがどこぞの馬の骨を
適当に引っ掛けて腹つなぎをしようとも、本当に彼を満たすのは己を現世に呼び戻したレイヴン
のみ。レイヴンでなければデザートを欠いたフルコースみたいなものらしい。甘いもの好きの彼に
とってむしろ重要なのはメインよりデザート。だからどれだけより道しようと最後は必ずレイヴンの
元に戻ってくる。自分がいないと生きていけない、そんな存在を背負い込むのは面倒この上ない
だろうに、なんだか心地よいというのはつまり。
 ははは、参ったねと乾いた笑みを浮かべながら、後ろ頭をぼりぼりと掻く。あらゆる意味で宗旨
替えを迫られているというのに、その重みや痛みがちっとも嫌でないことがやたらとくすぐったくて
たまらなかった。





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