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真実を見極めたくてごしごしと目元を擦り、再度目を凝らしてはみたけれど視線の先にいる人物は 相も変わらず長い黒髪、上下共に黒い服、細身かつ長身、大胆にもおっ広げた胸元、カタナと呼ぶ らしい片刃の剣を片手にぶら下げた男性でしかなく、それらはカロルのよく知る人物の特徴と合致 していたのでああそうか、僕は夢を見ているんだと思い直した。夢だったら何でもアリだ。魚が空を 飛び、鳥が海を泳いだって不思議じゃない。今朝ダングレストで借りている凛々の明星の活動拠点 兼住居にある自分の寝床で目を覚まして、ちゃんと朝食を食べてからバウルの運ぶ船で帝都まで 飛んできたような気がするけどそれも全部夢、僕はまだ温かいベッドの中にいるんだ、それにしても 五感に訴えかける力の強い、やけにリアルな夢だなあ、と。まあ夢ならいいやそれならそれで。でも 今日は予定もあるし、そろそろ目覚めたいところ。こういうときは何か衝撃を与えてもらうのが常套 手段だよね、とカロルは隣を見上げる。いやに険しく眉根を寄せたジュディスが愛槍を握る手に力を 込めているのを見、やっぱり自分でやることにした。無難な路線で、とりあえず頬をつねってみる。 おかしい、普通に痛いじゃないか。もしかして、夢じゃない、とか?い、いや、そんなわけ…だって、 あのユーリが、だよ? 現実と夢の狭間で戦うカロルの視界の隅、ちょうど巡回時間だったのだろうか、ドンガラガッシャン と激しい物音がしたので何事かと見遣ると、貴族街へと続く長階段の中間あたりから水色と白銀の 騎士が転げ落ちてきてそのまま気を失ったようで、居合わせた他の騎士数名が団長閣下!お気を 確かに!などと大騒ぎしているから嫌でも認めざるを得なかった。これは、夢なんかじゃない。 真っ赤な薔薇の花束と、華美ではないのに一目で質のいい高級品とわかる正装。ひとりの男性が 市民街の大広場という人目につく場所だというのに恭しく跪き、結婚を申し込んでいた。女性の立場 ならどう思うだろう。カロルはまず身近な女性で反応を想像してみた。リタは「恥ずかしいし、なんか バカっぽい」と冷たく非難しそうだが、ジュディスだったら「そう?情熱的でいいんじゃないかしら?」 と好意的に受け止めてくれそうだ。エステルだって「恋愛小説みたいで素敵ですね!お相手の方は どんな返事をされるでしょうか、どう思います?なんだか私までドキドキしてしまいました!」なんて 興奮気味に話してくれるだろう。肝心のナンは…残念だがリタと似たり寄ったりの可能性が高い。 ともかく、世の女性すべてが喜ぶシチュエーションでないことは確かだ。女性でなければなおさら。 そう、この男性が求婚していた相手はたまたま外見上の特徴が一致し、しかも名前まで同じという どこかのユーリさんではなく、カロルがドンの次に憧れる凛々の明星の切り込み隊長、頼れる兄貴 ことユーリ・ローウェルその人だったのだ。 何の取り柄もない僕だけどあなたを思う気持ちは誰にも負けないつもりです、どうか僕と結婚して ください!と花束を差し出した、命知らずのこの男性。次の瞬間ユーリの拳が炸裂して宙に浮いて いたり、または地面に叩きつけられていたり、顔面が凄まじく変形していたり、と思い浮かぶ凄惨な 予想図はあれこれ尽きない。しかし予想を大きく裏切って男はまったくの無事だった。それどころか 花束を奪うように受け取るついでに手のひらをぺちんと軽く打ち、アンタが俺よりも強くなったらその ときは考えてやるよ、でも、そんな日は永遠に来ねえだろうけどなとニッと笑う。粗雑に花束を担ぐ 仕草まで絵になることは今更だけど、ていうか何その反応!カロルは焦る。ツンデレ?ツヨキウケ? カロルにはまだ早い、もしくはまるっと不要な世界の用語。今この場にいたいけな少年に要らんこと ばかり教えるまるでだめなおっさんがいたらば適切な表現を教えてくれたろうが、あいにくと本日は 別行動。いずれにせよ、ユーリの表情や態度に拒絶、嫌悪、侮蔑の類はまったく感じられない。その 時点でまずおかしいのだ。あのユーリ・ローウェルともあろう者が、こんなに甘い対応をするなんて。 ユーリってば、一体どうしちゃったの…と驚愕を通り越したカロルは、フレンの手料理以上に害の あるものでも拾い食いしたかもしれないといよいよ心配になった。ユーリが初対面や馴染みのない 人間に対してはひどく素っ気ない、あるいは辛辣な言動を取りがちなのは身を以って知っていたし、 女性と間違われていたら確実に機嫌を損ねているはずだ。いくらユーリの人となりをきちんと知った 上の真剣な告白だとしても、そんなつもりもないのに中途半端に希望を残す返答をするだろうか? それとも本当に望みがあるのだろうか?ユーリは女の人が好きなんだと思ってたけど、男の人でも 大丈夫だったりするんだろうか?いつから?ずっと昔から?騎士団時代に何かあったり?旅の途中 にも?もしかしてそのひとに会ってから?そんな、そんなのって…ユーリ…!ぐるぐる無限ループで 悩める少年は叫び出したくなるのを必死で堪えていた。 ユーリがダングレストに戻るのは一ヶ月ぶりだった。剣の基礎から手ほどきしてほしいとの依頼が あってしばらくのあいだ帝都に滞在していた。凛々の明星の面々は全員腕に覚えがあるとはいえ、 得物が剣となれば人材は限定的になる。加減が不得手な地上最強の黒獅子の称号を持つ男には 不向きかと思われたが依頼主によれば厳しさが増してもむしろ光栄だとのこと。貴族からの依頼と あって報酬も破格だ。結界魔導器無き今、早急に身を守る術を求める者は多い。金に困っていない なら大枚叩いて私兵でも雇えばいいものをわざわざ自ら学ぼうとする心意気は素直に評価したいと 言い、昔から悪い印象を抱いてきたに違いない貴族が依頼主でもユーリは愚痴のひとつも零すこと なく引き受けた。そのせいのだろうかとカロルは今になって後悔している。本当は嫌で嫌で仕方が ないのにギルドの運営資金のため我慢して引き受けてくれたんだろうか、そのストレスが影響して 精神錯乱とか精神汚染とかこう…と夕食時になっても悩める少年を実行中のカロルに何かと敏い ギルドの仲間が気づかないはずがなかった。 船上であの白昼玉砕求婚男(ジュディス命名)は例の依頼主であり、日々ユーリの特訓を受ける うち対外的な強さよりも大切な内面的な強さの大切さに気づいて惹かれたとかなんとかで何度も 言い寄られたけど、趣味は悪いが中身は貴族らしくないいいやつだったし、剣の筋もよかったから 激励の意味も含めてああいう返事をしただけで、何か拾い食いしたわけでも頭打ったわけでもなく、 基本的に今でも貴族は嫌いだし、相手が誰でも結婚する予定なんて全然ないし、この俺があんな 貴族のボンボンに負けるわけないし、カロル先生は心配しすぎなんだよと昼の衝撃的な出来事に ついて説明は受けているはずなのだが、それでも胸のあたりがざわざわとして落ち着かない。 「それってつまりアレよ、要するに少年は青年が好きだからお嫁に行ってほしくないのよねぇ」 そこへ久しぶりのユーリ特製愛情たっぷりコロッケを箸で摘んだ、要らんことばかり教えるまるで だめなおっさんが余計な茶々を入れてきた。おいおっさん、と冷えて低い声が団欒ムードをぶった 斬るように食卓に響いた。ユーリだいすき!とまっすぐな好意を向けるカロルがそういう意味で好き なのは魔狩りの剣のあの子だ。それは全員知っているし、今更疑いようもない。密度の濃い人生を 懸命に生きている親愛なる我らが首領に変なことを吹き込まないでと水面下でグリグリ足を踏んで くるジュディスの鋭く尖った踵、地味に痛い。 彼らの気持ちがわからないレイヴンではない。凛々の明星+αの三人にとってカロルの存在は 特別だ。ともすれば暗いほうへと流されてしまいそうになる思考を明るい世界に繋ぎ止めてくれる 支柱、道に見失いそうになったときの目印、温かく居心地のいい場所の中心地なのだ。だから妙な 軽口で惑わせてもらっては困るのだ。たとえ悪意のないおふざけであっても何がきっかけになるか なんて誰にもわからない。ただでさえ思春期は悩み多き時期なのだから。カロルには陽の当たる 場所ですくすくと伸びやかに成長してほしい。世間ではそんな心境を親心と呼んだり子はかすがい と表現したりする。が、十二の身空で人類滅亡の危機を含む数々の修羅場を潜り抜けてきた若き 首領は周囲の期待以上に頼もしかった。 「うん、確かにそれもある、けど。あのときはただもうびっくりしちゃって…でも、ユーリがほんとに好き ならって思ったりもした、けど」 けど?と小首を傾げて続きを促すユーリに今ひとつ食の進まない様子のカロルは一旦箸を置き、 真剣なまなざしで滔々と語った。 ユーリみたいな金銭感覚のひとは結婚するには正直厳しいと思う。いくら相手が貴族でもお金は 無限にあるものじゃないんだから、奥さんがしっかりしすぎなぐらいじゃないと夫婦揃ってちゃんと したお金の使い方を知らないなんて、あっという間に財産食い潰しちゃうよ。子供ができたらすごく お金がかかるって聞くし、貯蓄は大事だよ。それにさ、ユーリは本当にきれいだしかっこいいし料理 だってすごく上手だし気遣いとかもさりげなくできちゃうし好きになっちゃうのもわかんなくないけど、 掃除とか整理整頓とか全然だし、ご近所付き合いとか、そういう家庭人としての自覚は絶望的に 以下略。 少年時代特有の淡い恋心を伴う悩み事かと思いきや、極めて現実的な視点からユーリお嫁さん 問題について考え込んでいたのだった。あのなカロル先生、産まねえから、産めねえから。長期の 仕事明けでいろいろ疲れていたユーリは目下重要な点だけ否定しておいた。 |