|
井戸がある。ほんの少し宿舎まで歩けばひと捻りするぐらいで容易に水道魔導器で汲み上げた水を たらふく飲める設備があるというのに、いったい誰が旧世界の遺物のような井戸など利用しようかと 侮蔑さえ向ける者も多いなか、黒髪を長く背に垂らした彼は貴重な常連客だった。 「そこで髪を洗っているの?」 気配を断って近づき唐突に声を掛けると、大袈裟なほどびくりと肩を揺らして驚いた。彼がぐるりと 首を半回転したせいで髪から滴る水がきれいな弧を描く。濡れた髪から落ちる水滴が裸の上半身を 濡らしていて、呆然とするあいだにも真冬の凍てつく空気が容赦なく体温を奪っていた。ただでさえ 井戸水は冷たい。素直に申し訳なく思い、ごめんねと警戒心を隠しもしない彼にフレンは謝罪する。 本来ならフレンは謝るという言葉を破いて捨てたって構わない身分だ。それが頭を下げるものだから まだ見習いのユーリとしては居心地が悪いったらない。騎士団に名を連ねる者は皆、フレンを閣下、 もしくは騎士団長閣下と呼ぶ。けれどもユーリは目上の人間に対する言葉遣いが得意でなく、いつも 「カッカ」とまるで違う意味合いの単語を使うかのような独特の響きで口にした。奇妙なことに、小さな 違和感がフレンの耳には愛らしく届く。それを目当てに何かあるたび話しかけてしまうので、そんな ことなど知る由もない彼にはすっかり怪しまれてしまった。通常、緊急の用件でもなければ騎士団長 直々に騎士見習いの少年へ話しかけることはない。 「ごめん、僕のことはいいから、続き済ましていいよ」 砕けた口調で、人好きする子犬のような笑顔を浮かべて、まるでどこにでもいるいち青年のような 気安い雰囲気で騎士団長様がそんな風に言うものだからユーリは逃げる口実を失い、渋々洗髪の 続きをすることになった。金属のタライに灰汁を混ぜた水を張って、髪に含ませては揉むように洗う。 城の食堂には魔導器で調理されたものしかない。灰は下町で調達しているのだろうか。気にはなる けれども、まずは彼が洗髪を終わらせるのを見守るのが先決だ。ひと通り髪を洗い終えるとタライの 中身を頭から被って、指の腹でごしごし皮膚を擦るようにして汚れを落とし、あとは新たに汲んだ水を 数度浴びる。最後は雑巾でも絞るような手つきでぎゅっと水を絞って傍らに置いてあったぼろぼろの タオルを被り、服を着なおす。 「それでおしまい?」 無言で頷くのを見、フレンはちょっとそこで待ってて、お願いだからと白と青のコントラストの美しい マントを翻して城に駆けていき、五分もしないうちに息を切らして戻ってきた。これを、使って。途切れ 途切れの息遣いはどれだけ急いできたのかという証拠に他ならない。騎士団長ともあろう者が全力 疾走などしたらすわ魔物かと姿勢を正す者も多かろうに、わざわざ走って。寒いのにこんなところで 待たせてごめんと、フレンはまた謝る。そして、ユーリの手に握らせたのは簡素な瓶だった。金色の、 まるで彼の髪の金色をとろりと溶かしたような透明な液体が入っている。 「これは杏の油で、髪を乾かす前に馴染ませるといいよ」 フレンはそう説明するが、ユーリは戸惑い、棒立ちになったままである。髪に馴染ませると一口に 言っても、フレンが何のために託したのか見当もつかないし、そもそもユーリは杏の油など見るのも 初めてなのだ。するとフレンは貸してと瓶をユーリの手から一旦取り上げて、己の手のひらに中身を ほんの少しだけ垂らして両手に満遍なく広げると、いまだ半分も乾いちゃいないユーリの艶々とした 黒髪に当て、ゆっくり撫でつける。なんだか甘い香りが漂い、くんと鼻を鳴らしたくなるけれど行儀が 悪いと怒られでもしたらと思い、我慢する。直後、フレンのほうからいいにおいだねと口に出したので 安心してもう一度胸いっぱいに甘い香りを吸い込み、それが己の髪からするのだと思うと妙に嬉しい 気持ちになってしまって、女じゃあるまいしと慌てて取り繕った。それでも恥ずかしいのか頬や耳にも 朱が差し、当然フレンの目にも留まったけれどあえて指摘はしない。そうしたらきっと照れ屋の彼は 逃げてしまうだろう確信がフレンにはあった。 「そのまま髪を乾かしてごらん、髪が喜ぶよ」 はい、と再度手渡された瓶を握り締める。カッカはなんで俺なんかのこと構うの。おそるおそる口に したに違いない疑問が、少し胸に痛い。下町の生まれであるユーリは貴族が多く占める騎士団では 辛い思いをすることが多かった。こんなところで髪を洗っているのもそういう理由だろうと、同じ下町 出身のフレンにはよくわかる。貴族と庶民、騎士と市民。できるだけこれらの境目をなくしていこうと 努めているはいるものの、現実にはまだまだ道半ば、終点など遠すぎて影すら見えない。その埋め 合わせ、というわけではなかったが、彼にはどうしても手を貸してやりたくなる。冷たい水より私室の 風呂を使わせてやりたいし、灰汁なんかよりもっときちんとした洗髪剤を買い与えてやりたい。だが、 特別な理由もなく騎士団長が見習い騎士を贔屓するわけにはいかない。それこそ彼を不利な立場に 追い込むだけだ。純然たる厚意であろうと、何か他に目的があるのではと卑しく勘繰る連中は掃いて 捨てるほど覚えがある。故にこんなことぐらいしか出来ないとフレンの内心には到底処理しきれない 苦いものが煮えたぎる。 「それ、母の形見なんだ、大事に使ってくれよ」 下がる眉尻にいまだ困惑を滲ませたまま、井戸の周りをきれいにして宿舎に戻ろうとするユーリの 背中にフレンはそう告げる。振り返った顔が何故と言いかけていた。贅沢など縁遠い下町の暮らし ながら、亡き父が騎士であったおかげで比較的余裕のある幼少期を過ごした。それでもやはり裕福 というには程遠く、祝い事など折に触れて紅を差すぐらいで化粧をする暇も惜しんで働いて、結果、 体を壊して死んだ母がたったひとつ手を伸ばした高価なもの。希少な杏の油を、嬉しそうに少しずつ 少しずつ使っていたことをフレンは今でも鮮明に思い出す。 それじゃあとフレンが立ち去ろうとしたところ、なんでと悲鳴じみた声が無人の練兵場に木霊した。 なんでそんな大事なものを、俺なんかに。ユーリは今にも泣き出しそうな声を出し、フレンの手に瓶を 返そうとする。けれどフレンは頑として受け取ろうとしない。どうしても君に使ってほしいんだと、下町 じゃ神様みたいに皆口々に褒めたてる人間が今にも頭を下げんばかりに願った。なんで、と繰り返す ユーリは下を向き、とうとう泣き出してしまった。 「…なんで俺なんか優しくすんの…」 フレンは彼の問いかけに応えたことがない。混乱がとうとう限界を越えてしまったようだ。このまま では彼の負担になるだけだと思い直し、ひとつ深呼吸をして覚悟を決めた。今後どう転ぼうと責任を 負わなければならない。 「君が好きだからじゃ、だめなのかな」 冷気から守るように、そっと抱き締めた両腕はまだまだ成長途中の体を簡単に包み込んでしまう。 なんて温かいのだろう。冷えきった体は大人の頼もしい温もりに歓喜するけれど、甘えてしまっては いけないものだと、下町でも騎士団でもたったひとりで生きてきたユーリは瞬時に気づいてしまった。 フレンの逞しい胸板を渾身の力で突き飛ばして「そんなの、だめに決まってる」とひときわ強い語調で 切り捨て、瓶をフレンの手に押し付けるや否や、引き止めようとする手も振りほどいて駆けていく。 「フラれてしまいましたね」 残響を惜しんで寒空の下、彼のいなくなった場所に立ち尽くすフレンの背後に、一連の会話を聞き ながら気配を断ち、沈黙を貫き通した声が耳に痛い。副官のソディアだった。一度は鷹の目のように 獲物を鋭く捉える彼女の監視を掻い潜ってなんとか脱出を果たしたものの、杏油の瓶を取りに戻った 際に見つかって、まんまと尾行を許してしまった。彼に対する特別な感情を秘密にしていたわけでは ないのでおおよその察しはついていたらしい。しかし、今日の行動はフレンをよく知る彼女にとっても 予想外だったようだ。何より、フラれた割に元気そうである。 「まあ、瓶は受け取ってもらえたからね」 フレンはその理由をずるい大人の笑みであっさり明かしてみせる。抱き締めたどさくさで、杏の油の 瓶をユーリの懐に忍ばせたのだ。ついでに言えば、母の形見というのも嘘である。いくら品質のいい 油であっても、亡くなって二十年以上経つ母の形見では酸化してしまってとても使えやしないだろう。 それを見越して同じものをあらかじめ買っておき、機会を見て贈ろうとずっと狙っていたのだった。 はあ、とソディアのため息が殊更大きくフレンの耳を打つ。彼が可哀想ですと同情を寄せ、大人の 恋情というものはなんと厄介なのだろうと改めて思う。過ぎるぐらいの真面目がなりを潜め、隙あらば 恋路を歩もうと脱走癖のついてしまったフレンは依然として騎士の鑑である。が、その本性は狙った 獲物は絶対に逃さない、強さと狡さと優しさを兼ね備えた獣の王そのものだ。あの少年が捕まるのも 時間の問題といえる。せめてあと何年か年嵩で、彼が酸いも甘いも噛み分けたふてぶてしい大人で あったらとソディアはないものねだりの幻想を抱いてみる。 |