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※死にネタ注意! 父様の命の灯火が日に日に弱くなっていくのを私はこの肌でひしひしと感じて いました。お医者様の言葉は胸の奥で否定し続けた予感を確信に変えてしまう だけのもので、私にわずかな希望の光さえ与えて下さいません。それでも私は いつも通り笑わなければなりませんでした。マシューとアルは今、必死になって 父様の分も頑張って会社を支えているのですから。出来ることなら私もお手伝い したいけれど優しい二人は私に父様のそばにいろと言ってくれるのです。だから 私は弱音ひとつ零してはいけない、そう思いました。強く、ひたすら強く在って マシューとアルを精神的に支えていかなければと思ったのです。父様の部屋、 ベッド横の椅子に座っていると父様が元気でいらした頃、お休みのたびよく案内 して下さった父様お気に入りの薔薇園が窓から見えて、私はそのときのことを 鮮明に思い出しては顔を綻ばせます。つぼみをつけたばかりの頃からとても 熱心に、これはどんな色のどんな形をした花が咲いて、どういう名前と由来が あって、ここまで育てるのにどんな苦労をなさったのか、色々な話を聞かせて 下さいました。薔薇の話に夢中になる父様はまるで子供みたいで、私は父様の ために美しく咲いた薔薇よりも無邪気に笑う父様を見ていたいと密かに思った ものです。私は馴染みの庭師さんに頼んで毎日一輪、その日一番綺麗に咲いた 薔薇を父様の枕元に飾ることにしました。少しでも父様の心の慰めになればと 思ったのです。こちらに引き取られてすぐ、まだ伏せっていることが多かった私に 父様がそうして下さったように。父様はとても喜んで下さって私まで嬉しくなって しまいました。薔薇の香りがほんのり漂う部屋の中、私と父様の会話はあまり 多くありません。私は話下手ですし、それに、父様のそばにいるとそれだけで 胸がいっぱいになって何も思い浮かばなくなってしまうのです。しかし不思議と 私はその静けさが嫌ではありませんでした。互いの鼓動が聞こえてしまいそうな 切り離された空間で、父様の息遣いやまばたきひとつに私の五感のすべてが 使われている、そうすることで私は父様をより近くに感じることが出来るような 気がしたのです。父様が何を考え言葉少なにしてらっしゃるのか、正直なところ 私にはわかりません。でも、それを許して下さる優しい沈黙が何よりの答えの ように思えて、私は幸せな静寂を全身で感じていました。その証拠に私がわずか でも底のない真っ暗な不安の渦に突き落とされそうになると、計ったかのように 「菊、林檎剥いてくれるか?」と声を掛けて下さるのです。父様の声に私は何度 救われたことか。おそらく父様は何もかもお見通しなのでしょう。私の不相応な 感情にもとうに気づいてらっしゃると思います。なのに父様は私をそばに置いて 下さる。父様の血の一滴すら継いでいないよそ者の私を拾い、正統な跡継ぎで あるマシューやアルと分け隔てなく愛情を注いで下さった父様。この身に余る ほどのご恩を、私はどうやって返していけばいいのでしょうか。息子にあるまじき 感情を抱くこんなにも浅ましい私を、どうして変わらず愛して下さるのでしょうか。 父様の手にほんの少し触れられるだけで、私の心臓は今にも弾けてしまいそうに なるのに。―――そう、父様の手。私があの孤児院にいた頃、私を引き取ろうと した方が何人かはいたのです。とても口には出せない用途ではありましたが、 いざ私を引き取ると咳が鬱陶しくてそんな気になれないだの、変な病気を持って いるのではないかだのと冷たく突き放され、何度も何度も元の孤児院に帰されて いた私。私は世の誰もがあの方々と同じで、私などに触れるのはお嫌だろうと 怖かったのです。マシューとアルも、そうではないかと。二人とは最初、お世辞 にも仲がいいとは言えませんでしたけれど、些細なきっかけで打ち解けた二人は 本当に心の優しい子で、お荷物でしかない私に暴力を振るう院長からも守って くれました。私の小さなナイトたちにはきっとその優しく強い心に相応しい方が 迎えに現れる、そう信じていた矢先に父様が現れたのです。まるでお話に聞いた 王子様のような素敵な方。私は憧れと決して届かないものに対して絶望を感じる ばかり。だけど父様はあのとき咳に苦しむ私の脂で汚れた髪をためらいもせず 優しく梳いて下さった。それまでは誰ひとりあんな風に触れてはくれなかった。 父様の手の温かさを私は今も忘れることが出来ません。ねえ父様、父様は何故 こんな、こんな私などを。聞きたいのです。本当はその口から聞きたいのです。 父様がいなくなってしまう前に、本当はどうしても聞きたいのです。父様がいなく なってしまったら、私はどうすればいいのですか?「なあ、菊」震えそうな手で 林檎に刃を入れたところで父様が私を呼びました。私が胸の内で荒れ狂う嵐を 悟られまいとして下手な作り笑いで応じると「お前の泣き顔は、見たくないな」と 薔薇園を見つめて唐突な一言をおっしゃるのです。父様は私の拙い考えも全部 お見通し、そうでしたね。ええ、私は泣きませんとも。父様がいなくなってもずっと 笑っております。父様の大好きな薔薇を父様の代わりに大事に大事に育てて、 マシューとアルを父様の分も支えて、父様の息子として相応しくない思いは胸の 奥にしまって鍵をかけて、いつかその日が来るまでは強く、強く。だから、だから 神様お願いです。どうか一日でも長く、私を父様のそばに置かせて下さい。私の 幸せは世界中のどこでもなく、ここにあるのです。だからどうか、一分でも一秒 でも長く。他には何にも望んだりしませんから。 「ねえ父様、この林檎うさぎの形に見えません?ホラ、でしょう?」 不器用でもこうして、私はずっと笑って、笑って、死にたいぐらい泣きたくても、 悲しくても、苦しくても、辛くても、痛くても、ずっとずっと笑っておりますから。そう すればいつか、私の心も父様は許して下さるでしょうか。恋や愛なんて言葉では もはや言い尽くせない、いつ死んだって構わないと暗い灰色の世界に住んでいた 私に与えられたそれはたぶん、唯一の光、だったんです。あれからずっと、今も、 これからも、私はその光に焦がれ、焦がれ続けていくのでしょう。ずっと、ずっと。 |