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※死にネタ注意! 時の流れは早いもので、菊がいなくなってからもう十年近くも経つ。マシューは 社交界だなんだって面倒そうなことに散々振り回されてて、ああ俺が継がなくて よかったって心底そう思う。若造の俺が会社を引っ張っていくのも相当大変だった けど、俺にはこっちのほうが向いてるみたいだ。アーサーみたいなことにならない ように早く結婚して子供を作れってせっつかれるのは俺も一緒だけど、不思議な ことに俺たちは揃ってまだそんな気にはならないんだ。菊の存在は俺にとって あまりに大きすぎる。俺は確かに、最初菊が嫌いだった。あの孤児院で出される 食事はいつだって飢え死にしないぎりぎりの量だった。俺はかなり食べるほう だったからいつもおなかを空かせていた。すると菊はただでさえ少ない食事を 残して俺に押しつけてくる。親切の押し売りのつもりかって、俺はイライラした。 体が弱いとかであの薄暗い部屋の隅っこのベッドで一日のほとんどを横になって 暮らして、可哀想に思って遊びに誘ってもすぐ「私なんかが…」って言い出して、 イライラは募るだけだった。何よりも昼夜絶えない耳障りな咳。石みたいに硬い ベッドに薄っぺらな上掛けで寒くてガタガタ震えてろくに眠れないってのに菊が 咳なんかするから余計に眠れない。俺が何を言っても「ごめんなさい」、院長に 罵られようが殴られようが「すみません」。謝れば何でも済むと思ってるんだろう かと考えるだけで吐き気がした。あの頃、俺たち兄弟は世の中のすべてが敵 だと思っていた。世の中のすべてを憎んでいた。だから菊もそんな世界の一部 だったから存分に嫌いになれたんだ。だけど菊は違うって知ったあの日、あの 夜。熱にうなされて、俺たちこのまま父親みたいに死ぬのかなって思ってたあの ぼやけた視界の中に映った菊の顔。心配そうに見下ろすあの顔。冷たい水の せいかタオルを交換するときにちょっと触れた手はびっくりするほど冷たくて、 菊は時折自分の息を吹きかけて温める。そして咳。自分だって体辛いんだろう って、俺たちなんかもうほっといてくれよって、そう言ってやりたかった。なのに 喉が痛くて声が出ない。菊は俺とマシューのタオルを変わりばんこに交換する。 俺たちが三日三晩寝込んでたあいだ、ひょっとしたら菊は一睡もしてなかったん じゃないだろうか。俺たちが元気になった頃には今度は菊が寝込んで「ごめん なさいごめんなさい、でもほっとけなかったんです、私なんかが…馬鹿ですよね」 って苦しそうに咳をしながら笑った。俺たちは双子だから、辛いのも苦しいのも 二人で半分こにしてきた。でも、菊はひとりだ。菊はひとりで全部、抱え込んで いるんだ。俺はそのとき、初めて誰かを大切に思うってことを覚えたんだと思う。 それはたぶん、いや間違いなく、恋だった。それから俺とマシューは何度もケンカ した。菊と結婚するのはどっちだって。俺たちが菊のことでケンカしてるなんて 知られたら菊が悲しむだろうから、外でこっそり。俺はもちろん負けたことなんて なかった。それで、菊がどんどん体調を崩して、アーサーが来て、俺たち三人で 引き取られて、菊はやっと医者に診てもらって、少し元気になって、俺たち四人で 家族になって、幸せだった。幸せだったんだ。今が幸せじゃないと言ったら違う けど、二人が生きていた頃以上の幸せになんて世界中探してもどこにもないと 思う。俺は毎月、菊の命日になると重要な会議があろうと抜け出してパーティ でも着ないような特別の正装をしてとっておきの赤い薔薇の花束を持って墓地に 向かうことにしてる。秘書にどちらに行かれるんですかって聞かれたら「デート だよ!」って答える。だって好きな子に会いに行くんだ。これはデートに違いない だろう?菊の墓標の前に薔薇の花束を置くんだけど、きっと菊なら『私なんかに こんな素敵な薔薇、もったいないです…そうだ父様、半分こしませんか?』なんて 言うに決まってるから、半分も持っていかれるのは癪だし一輪だけ抜き取って アーサーの墓前にも置いてやる。アーサーはオッサンだし、眉毛だし、バツイチ だし、あんなののどこがいいのかわかんないけど、菊はずっと、アーサーのことが 好きだったんだ。悔しいけど、俺は勝てなかったんだ。「Hi、菊!そっちで元気に してるかい?アーサーに変なことされてないかい?菊は知らないだろうけどね、 アーサーってほんとはすっごいエロいんだ!気をつけなよ!」俺は毎月、返事の かえらない会話を交わす。人は不毛だって言うかもしれないけれど、おそらく菊は ちゃんと聞いていてくれるだろうから俺はそれでいいんだ。遅れて会議に参加 したら何故だか知らないけど俺のデートの相手の話になったから「違うよ、片思い なんだよ。初恋の人さ。黒い髪に黒い瞳でね、病気がちであんまり外に出ない からすごく色白でね」と菊のことを散々自慢してやった。今はどこにいるのかって 痛いところ突かれたから俺は遠い目をしてこう言うしかなかった。「ロミオがね、 連れてっちゃったんだ」首を傾げる会議の面子にそれ以上は教えてやらない。 誰にもこの意味が伝わらなくたっていい。菊とアーサーのことは俺とマシューが 知ってるから二人とも、これでいいよね? |