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※死にネタ注意! 大学を卒業した僕とアルフレッドがアーサーさんの下で事業のイロハを学んで 二、三年経った頃からアーサーさんは体調を崩すことが多くなった。僕たちは 会社を傾かせないように必死でアーサーさんの分も働いた。菊と過ごす時間が 減って寂しい思いをさせてるだろうなとは思ったけど菊はずっと笑顔で僕たちの 背中を押してくれて、だから僕たちは目の回るような忙しい日々を乗り切ることが 出来たんだと思う。やがて寝込むようになったアーサーさんの身の回りの世話を しながら「お二人が頑張っているおかげで父様は安心して養生に専念することが 出来るんだと思いますよ」と菊は少しやつれた顔で笑った。自分だってそんなに 丈夫じゃないのに、菊は一日中アーサーさんのベッドの横にいるんだと聞いた。 毎日何を話してるの?と尋ねると果物を剥いたり少々の介助をしたりはするけど 会話はほとんどしないのだと菊は言った。つまらなくないの?と尋ねても菊は いいえ、ちっともとすごく幸せそうに笑う。僕は知っていた。菊はアーサーさんが 好きなんだって。もちろんただ息子としてではなく、つまり、そういう意味で。僕は 正直、複雑な気持ちだった。確かに僕たち兄弟もアーサーさんにはとても恩義を 感じてる。誰の助けもなく、幼子二人を抱えて貧しい暮らしのなか僕らの本当の 父親は昼も夜もなく働いて働いてその末に体を壊して死んだ。医者に診てもらう お金があったら死なずに済んだかもしれないけれど、今更取り返しはつかない からそれはそれで仕方がない。母親は物心ついたときにはもうどこにいるかも わからなくて、僕たちは世界中でたった二人きりになった。最初に預けられた 孤児院は刑務所みたいに息苦しく窮屈で、僕たちはたびたび脱走してはひどい 罰を受けた。色々な孤児院をたらい回しにされて、そして最後に行き着いたのが あの孤児院だ。院長はほとんど僕たちに無関心で、ある意味最も自由な待遇と 言えた。その代わり子供が時々不自然に消えていく。幼い僕たちにもろくな場所 じゃないことは薄々感づいていた。でもそこに、菊がいた。ひどい話だけど僕や アルは最初、夜中も絶えない菊の咳をうるさいと思ってた。おとなしくて、人と 話すのが得意じゃなくて、しょっちゅう病気して、見た目もぱっとしない菊を院長も 持て余してて菊自身それをわかってるのかどんな扱いを受けても文句ひとつ言う ことはなかった。アルはああいう性格だからそれが気に入らなくて、何度も菊に ひどいことを言っていた。なのに菊は一度も言い返したりせず謝るばかりで、僕は 全然アルとは似てないと思ってたんだけどそのうち僕までなんだかイライラして きちゃって僕もひどいことを言ったと思う。あの頃、世の中のみんなは僕たちを 嫌っていると思っていたし、僕たちも世の中のみんなが嫌いだったからきっと菊も こんな僕たちなんか嫌いだろうと思ってた。菊を見る目が変わったのはその年の 冬に僕たちが揃って風邪で熱を出して寝込んだときだ。医者はいないし、薬も ない。あるのは冬の凍てついた水だけ。菊は僕たちの額の上に濡らしたタオルを 置いて、数時間おきに交換してくれた。昼も夜もずっと。熱が引くまで随分時間は かかったけれど、あのとき菊が僕たちの看病をしてくれなかったら僕は、僕たちは 世の中の全部を嫌いなまま死んでいたかもしれない。今でも思い出す。タオルの 温い感触、菊の咳き込む声、汲んできた冷たい水を絞る音、ひやりとする新しい タオル、菊の心配そうな顔。僕たち兄弟の初恋はたぶん菊だ。そのとき僕たちは 誰も菊を守ってくれないなら、僕たちが菊を守っていこうと誓った。汚い外の世界 から、醜い大人の世界から。そうして、アーサーさんが来た。僕たちはまだ敵の 区別もつかない子供だったから伯父だろうとなんだろうとどうにかして追っ払って やろうと初めは思っていた。でもちょうどその頃、菊の咳は悪くなる一方で院長に 何度頼んでも医者を呼んでくれる気配はなかった。このまま菊は僕たちの父親 みたいに死んじゃうんじゃないかとアルと二人で不安のどん底にいた。またひどく 咳き込んだ菊を見て、僕はアルと顔を見合わせた。僕たちはやっぱり双子だ。 どうやら同じことを考えてるらしかった。こうして僕たちは三人でアーサーさんに 引き取られた。菊さえ治ったらあとは逃げ出すなり何なりどうとでもしてやろう、 そう思っていたのにアーサーさんは今まで出会ったどの大人とも違う種類の人間 だった。なんていうか、似てたんだ。僕たち兄弟と。世の中の全部を嫌っていると いうとちょっと違うけど、ほとんど諦めている、そんなかんじが。それは菊にも共通 することだ。菊は何でも諦める。手を伸ばせばすぐに届くものから自分の命までも 諦めて、それでも優しく笑ってみせる。僕たちはそんな菊が歯痒くて、なんとか したくて、だけど通じなくて、やっと菊が本当に幸せそうに笑うようになったのは 僕たちとアーサーさんが本当の家族みたいに接するようになった頃だ。アーサー さんは伯父でも親でも兄でもなくて、なんと言ったらいいのかわからないけれど 僕たちにとって特別な存在になった。菊は僕たちやアーサーさんが笑ってると すごく嬉しそうなんだ。僕は変わらず菊が好きだったから理由はすぐにわかった。 菊が好きなのは、アーサーさん。菊は今でもそうなんだ。だからアーサーさんの 隣でそんな風に笑うんだ。僕はいまだに菊が好きで、たとえアーサーさんだろうと 取られたくなんかないけれど、ずっとこんな日々が続けばいいと思ってた。僕と アルフレッドとアーサーさんと菊。ずっとずっと、このまま四人一緒にいたかった。 だってそれが菊の幸せで、僕たちやアーサーさんの幸せでもあったんだから。 アーサーさんが亡くなったのはそれからまもなくのことだ。僕たちは散々泣いた けど菊はとうとう泣かなかった。悲しくないの?なんて聞けるもんか。もう悲しいの なんかとっくに飽和してるんだってことぐらいわかってる。僕もアルも、慰めの言葉 すら思い浮かばなかった。それからカークランド家の当主の座や社長の座なんて 面倒なものが僕たち兄弟に回ってきて、じゃんけんで僕が当主を、社長をアルが 継ぐことにした。菊は穏やかな表情で「お二人にぴったりのポジションですね」と 言ってくれた。じゃんけんで決めたのは内緒だけど菊が言うならこれでよかったん だろう。僕たちはまた忙しい日々を送るけれど、前よりもっともっと寂しい思いを してるに違いない菊の様子を頻繁に見に行くのは忘れなかった。菊はアーサー さんが趣味で育てていた薔薇の世話を庭師に一生懸命習いながら引き継いで いるのだという。菊が愛おしそうに薔薇の花を見る目は、アーサーさんを見ている ときの目そのものだと思った。数ヶ月後、菊が薔薇園で倒れたと知らせが入って 初恋は叶わないものだと僕は理解する。菊はそのまま、眠るように亡くなった。 幸せそうな顔をしていたと思う。そのせいで僕たちは泣くことも出来なかった。 並んだ墓標を前に、アルは「俺はもう、二度と恋なんて出来ないと思う」と呟いて いた。僕はどうだろう?僕はまた誰かを愛することができるだろうか?今はまだ わからない。でもいつか再び恋をすることがあるなら、菊とアーサーさんみたいに 透明で純粋なものを分け合いたいと思う。二人とも決して形にしようとしなかった けれど、二人のあいだにあったものは愛情だった。それは間違いない。だから 僕はアーサーさんを羨ましく思うんだ。僕たちが得られなかったもの、菊がただ ひとつ諦めなかった幸せ。それがアーサーさんだったんだから。 |