※死にネタ注意!




 初めのうちは決して隙を見せようとせず、宛がわれた部屋にいるよりもベッドの
菊に寄り添うことを望んでまるで番犬か何かのように不用意に近づく者すべてに
警戒心を向けていたマシューとアルフレッドも菊の体調が良くなるにつれ徐々に
俺が菊に触れることも許していった。菊の病状は生まれつき体が弱いのに加え、
孤児院での粗末な食事や衛生状態の悪さが大きく影響していたようで今も時折
咳の発作はあるものの、その頻度は驚くほど少なくなった。カークランド家には
無関係である菊を引き取ることを一族は案の定猛反対したが、俺が黙らせた。
使用人の誰からそれを聞いたのか、その日菊の具合を見に行くと二人は珍しく
牙のような威嚇を引っ込めて「…あの、アーサーさん」「…その、なんていうか、
ありがとうアーサー」とぼそぼそ小さい声で告げてきた。二人が初めて俺の名を
呼んだ瞬間だった。菊はまだ横になっていることが多かったが気まずいというか
照れくさいというかそんな表情をした二人をベッドから見上げてくすくすと笑んで
いた。最初からそんな効果を期待していたわけではないが、菊はそれからも俺と
二人のあいだで潤滑油のような働きをしてくれた。起き上がっていられる時間が
少しずつ増えてくると別々に取っていた食事もみんなで食べたほうがおいしい
でしょう?と嫌がる二人を食堂に連れてきて、以来食卓は実に賑やかなものに
なった。食事が楽しいものだと思ったのはたぶんこれが初めてだった。この頃
から俺たちは家族というものを意識しはじめたのだと思う。しかし俺を「父様」と
呼びだしたのは皮肉にも血のつながりがまったくない菊だけだった。二人には
実父の、俺も知らない異母弟の記憶があるのだという。そのせいだろう。一方、
菊は赤ん坊のうちにあの孤児院に預けられたので家族の記憶がひとつもない
ということだった。だから余計に養父とはいえ父親が出来たことを菊は嬉しいと
言った。菊は一日に何度も俺を呼ぶ。「父様」「父様」「父様」特別な思いがその
響きに込められていることに気づくのはそれから数年もしないうちだった。下町
訛りもすっかり抜け、上流階級に相応しい振る舞いも身につけて、今は名門校に
通う二人とは違い、あまり体力のない菊は家庭教師に勉強を教わっている。外の
世界をほとんど知らない菊に帰ってきた二人は身振り手振りを交えて今日一日
あった出来事を余さず報告するのが日課だ。菊は時々質問を挟みながらいつも
楽しそうに嬉しそうに話を聞いている。そうして夜も更けて様子を見に行きがてら
そろそろ寝かしてやれと声をかけると二人は名残惜しそうにまったくアーサーは
過保護なんだからだのなんだのとぶつぶつ文句を呟きながらそれぞれ自室に
帰っていく。すると途端に菊の部屋はまるで別の世界になったような静けさが
支配する。菊はよく俺にこんなに静かだと心細くて眠れないのだと打ち明けて
くる。年を重ねても子供のようなことを言って俺を困らせる菊が望むのは眠りに
落ちるまでそばにいてほしいというとても些細な願いのためだ。仕方ないなと
腰を下ろすと菊は俺の手をぎゅうと握り、何度も何度も礼を述べる。「私のような
よそ者にまで情をかけて下さってありがとうございます」「私、幸せです」「本当に
本当に、私幸せです」と夜毎呪文のように繰り返した。それらの言葉に嘘偽りが
ないことはわかっている。だが本当に言いたい言葉を懸命に喉の奥に押し隠して
いるのは四十も近いこの年になれば感づいてしまった。そして俺も同様に告げる
ことは出来なかったのだ。"お前には俺なんかよりもっと相応しい相手ができる
はずだ、そんな一時の迷いなどさっさと捨ててしまえ"なんて。大切に大切に俺の
手を胸元に抱き込む頼りない温かさを、俺自身の心をも偽る残酷な台詞で突き
放すなんて。俺はようやく足りなかったものを得られたのだ。本当に人を愛する
こと、何の見返りも求めずに相手の望むようにしてやりたいと思う心を。それは
すでに父親として許される範囲を越えてしまっているだろう。だからなおさら俺は
明かすわけにはいかなかった。菊のおかげで、俺たちは本当の家族になれた。
大人げない悪口の応酬を微笑ましそうに、羨ましそうに、寂しそうに見つめる黒い
瞳。血のつながりがないという見えない壁、その内に潜む空虚。それを埋めて
やれる感情を俺もまた持っているからこそ、このままでいいのだ。俺はどうせ菊を
幸せにしてやれない。だからこのまま、幸せな家族のまま、それでいい。それで
いいんだ。「眠るまでここにいてやるから、お前が不安に感じることなんて何にも
ないんだ、さあ休め」空いた手で俺は黒くて艶やかな髪を撫で、お休みのキスを
額に贈る。菊は素直にはいと頷き、微笑んで目を閉じる。俺たちはこの幸せの
形をした不完全なものを互いに抱えて、それでも充分幸せな夢を見る。





ブラウザバックでおねがいします。