※死にネタ注意!




「 かつて世界は灰色だった 」



 四つの瞳が野生の獣のように警戒心を剥き出しに俺を睨みつけている。これ
以上は一歩も近づくなという意思の表れであることは明らかだ。しかし二人の
要望通り医者を用意してやったのだ。ここは通してもらえるだろう。「本当に医者
なのかい?」「本当の本当?」と鏡に映したように似た容貌の二人がまだ幼い
子供ながら厳しい疑いのまなざしを向けてくる。本当だと答えると双子は警戒を
解かぬまま渋々道を開けた。部屋の奥のベッドにはもうひとり子供が横たわって
いる。俺や二人とは何も共通点のない黒い髪に黒い瞳。この双子は俺の甥子に
当たるが彼はまったくの他人だ。引き取るとき孤児院を離れたがらない二人が
ようやく首を縦に振ったのは病に苦しむこの子供を一緒に引き取り、きちんとした
医師に診せてやるという条件を飲んだからだ。数日前まで三人は同じ孤児院に
いた。下町も下町、貧民街と言ってもいい粗雑で小汚い町の片隅でみなしごの
面倒を見るなど物好きな人間もいるもんだと感心したものだが、実際会ってみて
まったくの善意から行っているわけではないことは直感として感じられた。裏では
金さえ積めば良からぬ目的を持った相手でも素知らぬ顔で子供を売り飛ばして
いるのだろう。その食指が甥子に掛からぬうちに見つけ出せたのは幸か不幸か
俺にはいまだわからない。俺だってそういうやつらと何ら変わらないのだ。結局は
善意からではなく目的があって二人を引き取ることになったのだから。

 父の急死によって二十歳そこそこでカークランド家の当主となって数年、名家の
主にはそれに相応しい家柄の妻を、と一族の強引な勧めで俺は愛してもいない
女と結婚する羽目になった。家を継ぐからにはこうなることは予想済みで、よく
ある話だと諦めもついた。妻は美しかったが愛がないのは向こうも同様らしく夫婦
とは名ばかりの生活を送り、跡継ぎを作るためだけの義務的なセックスには何の
喜びも伴わず無益な十年が過ぎた。そして何故子供が出来ないのかと不思議に
思っていた矢先、医師から告げられたのは俺には生殖能力が欠如しているという
事実だった。妻はそれを理由にさっさと離縁して出て行った。他に男がいるのは
知っていたから特に何の感慨も湧かなかった。むしろ呪縛から解放されたような
清々しい気分だった。ただひとつ、代々続いたカークランド家の血統が俺の代で
途絶えることについて一族が騒ぐのが煩わしかった。それからまもなく一族から
もたらされた情報があった。俺には異母弟がいたらしい。父がメイドに産ませた
子を体裁が悪いと母子ともども屋敷から追い出したのは三十年近くも昔のこと
だという。その行方を一族は誰ひとりとして把握していなかったがこんな事態に
なったからには何としても呼び戻すしかないと下らない論議の末そういう結論に
至ったようだ。何より世間体を重んじる一族が八方手を尽くして調べ上げた結果、
何の援助もなく乳飲み子を抱えてさぞ苦労してきたのだろう母親はあれからすぐ
死んでいて、異母弟もすでに病死したあとだった。ただ異母弟には八つになる
子供がいたのだ。それが例の双子だ。どこの女に産ませた子かも今となっては
調べようもないが、とにかく正統なカークランド家の血を継ぐ者はもう他にいない。
俺は二人を養子として引き取るよう命じられた。こちらの籍に入ればおそらく一生
金には不自由しない。だが別の不自由を背負うことになる。それでも彼らは来て
くれるだろうか。俺は不安を抱えながらも二人を迎えに行った。念のためにDNA
鑑定書を持参していたがそんなものは用意するまでもなく二人の面影はどこか
亡き父に似ていた。二人は賢い子供で、一連の事情を話すと「俺たちの父親は
アンタらの勝手で捨てられたってのに、俺たちはアンタらの勝手で拾われるって
いうの?」「今更伯父面されたって迷惑だよ、僕たちはここを気に入ってるんだ」
「帰ってくれよ」「もう二度と来ないでよ」と嫌悪感をあらわにして辛辣な言葉を
次々と俺にぶつけてきた。二人の言うことはもっともで、理不尽を責められても
仕方がなかった。二人の聡明さを見る限りこの孤児院の裏稼業を、いなくなった
みなしごたちの末路を知らないはずはないだろうに、それでもここがいいと言う
なら引き下がろうと俺は思った。もしこのまま無理に連れ帰り、カークランド家の
跡継ぎとして生きることになってもそれが決して幸せな人生とは限らないと誰より
俺自身がよく知っていたからだ。そのときだった。「…せっかく肉親の方が迎えに
いらしたのに、もったいないじゃありませんか」じめじめとしてかび臭く、日の光
さえろくに当たらぬ古い牢獄のような薄汚い部屋の奥からそんな声が聞こえた。
そこには錆びついたいかにも安っぽいパイプベッドが並んでいて、声は真っ昼間
だというのにそこで横になっている子供から発せられていた。双子より少し年嵩
らしい落ち着いた物言いの子供は非常に鈍い動きで上体を起こし、「ああ、とても
素敵な方じゃないですか。きっと、お二人を幸せにして下さいますよ」と柔らかく
笑ったあと突然激しく咳き込んで小さい背を丸めた。二人はもはや俺のことなど
どうでもいいとばかりに素早く踵を返し、その子供に駆け寄って「寝てなきゃ駄目
だよ!」「苦しい?背中さすろうか?」と甲斐甲斐しく世話を焼いていた。即席の
血のつながりよりよほど強い絆がこの子供と二人にはあるのだと見て取れる。
咳があまりに長く苦しげに続くので俺もつい心配になり歩み寄って具合を見よう
とした。とは言っても医者ではないので何も手出しすることは出来ないが「何か
薬はないのか?」と尋ねるとそんなものあるわけないとぶっきらぼうな答えが
返ってきた。ここの院長は子供が体調を崩しても医者に診せることはないのだ
という。使い捨ての商品にそんな金は掛けられないということか。どこが悪い
のかもわからないが、もしかするとこの子は近いうちに死ぬ運命にあるのかも
しれないと思うと何故だか知らないが背筋が冷えた。しばらく背をさするうち咳は
落ち着き、子供はすみませんと謝罪して再び横になる。それでもひゅうひゅうと
異常な呼吸音は小さく聞こえ続けていた。こんなところに二人を残して本当に
いいのだろうかと思い悩むあいだ、双子は長く沈黙してやがて目配せしあうと
重い口を開いた。「アンタの養子に、なってもいい」「この子も一緒に引き取って
くれるなら」「この子をちゃんとした医者に診せてくれるなら」「約束してくれる
なら行くよ、どこにだって」そこがたとえ地獄であろうとも。そんな思いを込めた
八つの子供とは思えない力強い視線が俺をまっすぐに射た。それは何か覚悟を
決めたいっぱしの男の顔つきだった。ベッドの子供は「そんな、私なんかの世話
からやっと解放されるのにどうしてそんなこと…お二人の優しさだけで私は充分
幸せですのに…」と戸惑いを表情の全面に乗せていた。俺はそこに今まで身を
置いていた上流社会で出会ったことのない透明で純粋なものを見た気がした。
打算も計算もない、ただ相手を大切に思う気持ち。与えられたことも与えたことも
ないその感情。俺は何かにひどく打ちのめされて、言葉を失った。俺はなんて
無味乾燥な世界に生きてきたのだろうとすべてが急に空しくなったのだ。だが
この三人が俺の世界を壊してくれるだろう、凍りついていた心を、胸を、いつか
温めてくれる予感があった。カークランド家の血、名誉、地位、世間体、今までの
空虚な人生、俺の中で無価値だったものが砕けて霧散した瞬間だった。俺は
二人の名を呼び、最後に三人目の子供の名を尋ねた。こうして俺は図らずも
当初の目的を達することになる。俺の息子となった子供たち、それがマシューと
アルフレッド、それから菊だった。





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