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※男体化注意! 知らないただのどうしようもないクソガキだった。毎日のように同級生や上級生と ケンカしてはそっちこっちに生傷を作って、もちろん人一倍負けず嫌いだったから 相手はもっとひどい怪我を負い、ほうぼうに頭を下げて回る両親にはいつも長い 説教を食らっていた。それでも懲りることもしない俺はどんどん孤立していって、 俺はこんな風に作った神様だとか両親だとか運命だとかそういうものを恨んだ。 ケンカの原因はほとんど女男だのちんちんついてんのかといった極めて低俗で 程度の低い悪口にも関わらず、幼い俺にはどうしてもその侮辱が許せなかった。 向こうが悪い、向こうがケンカを売ってきたから買ってやったんだ、なのにどうして 怒られるのは自分だけなのかと心の屈折は増すばかりだった。そんなささくれた 日々の中でたったたひとり違った雰囲気を持つ人がいた。それが菊だ。ケンカを 終えた直後で顔に擦り傷があるのを見つけた菊は引っ繰り返したランドセルから 応急処置セットを取り出して可愛らしい猫のキャラクター模様の絆創膏をぺたりと 貼って『ヘーデルヴァーリさんはきれいなのに、もったいないです』と言う。『私は こんな容姿だから羨ましいです』と笑う顔はうまく笑えていなかった。女みたいな 顔と長く伸びた髪を馬鹿にするやつはいても羨ましがるやつはいなかったから、 俺はすっかり面食らってしまった。クラスの違う菊とはそれまでほとんど会話した ことがなく、当人が"こんな容姿"だと貶める艶々した真っ黒な髪や瞳、触れたら 気持ちがよさそうな日焼けしてない肌や優しい人柄、彼の持つコンプレックスを 俺はそのとき初めて認識した。それからだ、菊を特別意識するようになったのは。 休み時間になっても外に遊びに行くわけでもなくぼんやり校庭を眺めていたり、 放課後も誰と帰るわけでもなく図書室でひとり静かに本を読む菊を見つけたら 声をかけずにはいられなくなった。俺は今までの荒れようが嘘のように、どんな 悪口を言われてもさらりと受け流すようになり、ケンカもぴたりと止まった。そんな 暇があったら菊が"きれい"だと褒めてくれた容姿を与えてくれた神様や両親や 運命に感謝しながらもっときれいになってもっともっと菊に褒められたい、菊の 視線を独り占めしたいと願った。その感情に名前をつけるとしたら間違いなく恋 だった。 高校生にもなるとガラリと状況が変わって、ギャアギャアと騒々しかった男子の 代わりに周りを囲むのはキャアキャア騒ぐ女子の大群。これはこれでやかましい なんて言ったらたちまち性格悪いとか顔がいいから調子に乗ってるとかで途端に 手のひらを返すんだろう。正直、面倒くさい。女の子が嫌いなわけじゃない。来る 者は拒まずの精神で何人も付き合ってみたけど、やっぱりなんか違うと違和感を 覚えて、そうなったらもう手の施しようもなく、三日と待たないで頭を下げる、その 繰り返し。遊びのつもりじゃなかった、本当に好きになろうと思っていた。でも毎回 失敗する。理想が高すぎるのでは?そもそも俺の理想とは?そうしていつも行き 場を失って逃げ込むのは図書室で、菊の本好きは高校生になっても変わらない。 ひとりでいるのが落ち着くと言う割に本当は人といることが好きで、男友達とバカ やって騒いでみたり、年頃らしく恋バナや猥談を楽しんだり、放課後はファースト フードで間食しながら青臭い将来の夢なんかを語り合ったりしたいのだ。それを 阻むのは菊自身の性格だ。自分から誰かに話しかけたのはあれが最後だった かもしれませんねと菊は出会った当時のことを語って苦笑する。内気で気弱で とことん地味、それがコンプレックスを解消出来ないまま年月を重ねてしまった 菊だ。あまり生徒の寄りつかない図書室から運動部の掛け声が飛び交う校庭を 時折羨ましそうに眺める菊の姿がここにないときは校内の隅っこにある花壇で ちまちまと植物の世話をしている。園芸部があった名残と聞いたが、だいぶ前に 廃部になってからずっと放置されていたそうだ。正式な部でも同好会でもない から自分が小遣いからお金を出して苗や肥料を買って育てているのだとさして 高くも珍しくもないどこにでもあるような草花が見事に咲くたび菊は翳りのない、 まさに楚々とした花のように笑った。「ヘーデルヴァーリさんには負けてしまい ますけどね」と謙虚な姿勢は崩したりしないけれど。コンプレックスの塊だった 俺を菊が変えてくれたように俺が菊のコンプレックスをどうにかしてやることは 出来なかったのかと考えることがある。でもそうしたらきっとこの笑みは俺だけの ものではなくなっていたに違いない。菊の笑顔は本当に可愛い。俺の理想は 結局決まりなんだろうか。目立たない日陰で健気に咲いているような花、だけど 注意深く見つめていればその花が日向で幅を利かせる花より価値があることに 気がつく、そんな存在。暇ではないですかと聞かれてううん飽きないよと答える。 彩り鮮やかな花と土の匂い、慈愛に満ちた目で彼らを見守る菊。そのまなざしは 俺に絆創膏を貼ってくれたときのそれに似ている。菊に世話をしてもらえる花は 幸せだ。どんなに迷ったって悩んだって否定しようとしたって俺は菊が好きなんだ と思う。あのときからずっと好きなんだ。他の誰でもダメな理由はきっと。園芸用 エプロンをした後姿が「ヘーデルヴァーリさんは最近ますますきれいになりました ねえ」とため息を吐くようにつぶやいた。たぶんそれは恋をしてるから。あなたに 恋をしてるから。 「…ねえ、その真っ赤なゼラニウムの花言葉って知ってる?」 本の虫でも植物の世話が好きでも花言葉までは範疇ではなかったらしい菊は 首を傾げている。調べてもいいし、調べなくてもいい。ちゃんとした言葉はいつか 自分の口から告げるから。赤のゼラニウムの花言葉は"君ありて幸福"らしいよ。 |