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ばかりの湾と違って何もわからないなんてことはなかった。すべての事情を理解 していたわけじゃないけど、得意の駄々をこねたってどうにもならないことぐらいは わかったから、悲しかったけど、すごく悲しくてわんわん泣いたけど、兄貴と菊が ずっと俺や釣られて泣いてる香を慰めてくれたし、男ばかりの兄弟に妹が出来た ことは素直に嬉しかった。今ではこの素敵なお兄様をヨンスのバカなんて呼ぶ 可愛くない妹だけど、俺たち兄弟にとって湾は母様が遺してくれた大切な大切な 宝物だ。そして俺にも、湾と同じように知らないことがあった。大好きな母様が、 俺の本当の母様じゃなかったこと。俺の母様は別にいて、今も生きてて、父様 じゃない人と結婚して、外国に住んでる。兄貴や菊に聞けば何か教えてくれる かもしれないけど、逆に何で今まで黙ってたのかって思うと聞くのが怖かった。 俺がそれを知ったのは中学に上がってすぐ、本当の母様が国際電話をかけて きたからだ。ものすごい剣幕で一方的にしゃべるから俺は何を言われてるのか 全然わかんなくて、でもヨンスヨンスって俺の名前を繰り返し呼んでたのだけは 聞き取れた。呆けてる俺の代わりに菊が電話口に出て、そしたら向こうも少し 落ち着いてやっと会話らしいものが成立したみたいだった。菊が俺に説明した のは俺の本当の母様が俺を引き取りたがっていること、今すぐ法的な手続きを する用意があること、本当は手放したくなかったけれど当時はどうしても事情が あって育てられなかったこと、これまでしてあげられなかった分、俺の望むこと なら何だって叶えてあげる、何だって買ってあげる、俺のためなら何だってして あげたい、俺の顔が見たい、俺をこの腕に抱きしめたい、そう言ってること。もう 一度電話を代わると涙混じりに何度も俺の名前を呼んでいた。嘘じゃないんだと 思った。だけど俺はもしかしたらすごく冷血な人間なのかもしれない。不思議な ことに特別な感情は何も湧いてこなかった。産んでくれたことに対する感謝は あったけど今更そんなこと言われても俺の家はここで、俺の居場所はここ以外 なくて、俺の家族は素直じゃない兄貴と陰険な菊と何を考えてるかわからない 香と可愛くない湾で、他は関係なかった。今すぐ答えを出さなくていい、また連絡 すると電話は切れて俺はまた普通の日常が戻ってくると思ったのに、彼女から 電話が来るたびに家の中に変な緊張が走るのが俺は嫌だった。兄貴も菊も香も 湾もあれから妙に饒舌で、やたら俺に話しかけてきて、いつもならチャンネル争い とかおやつの取り合いとかどうでもいいことですぐケンカになるのに、ぴたりと 絶えて不自然なほどニコニコ笑ってる。まるで別の家にいるみたいな違和感だ。 誰のせいかは俺でもわかった。兄貴たちの両親も菊の両親もいないのに俺だけ ちゃんと生きてる母親がいる。記憶にない、顔も知らない、俺の気持ちもこっちの 事情も考えないで勝手なことを言う本当の母親。あの電話のせいで俺はひとり 異質な存在になってしまった。繊細な神経の持ち主なんてお世辞にも言えない ことは俺も自覚してるけど、正直耐えられない。わかるよ、わかってるよ。みんな 俺を追い出したいわけじゃないってことは。うちの家計はカツカツで、菊は高校 卒業したら就職しようとしてたのを兄貴に説得されて奨学金を受けて国立大に 進んだって聞いた。だから小遣いが少なくたってほしいものだって我慢してる。 それが好きなもの何でも買ってもらえて何も我慢することもなくて本当の母様に 甘やかされて、そんな夢のような生活が待ってる、もし他の兄妹にそんな奇跡 みたいなことが起きたら俺もさっさとそっちに行けって思う。だから最後ぐらいは 仲良くしなきゃって思ったんだろう。でも俺は行くなって言ってほしかった。俺の 家族はここにいるんだからどこにも行くなって。だけどみんなの優しさを無駄に するようでなかなか言い出せなかった。そのままぎくしゃくした日々が続いて、 とうとう本当の母親が来日した。しびれを切らして俺を迎えに来たらしい。実際 会ったって抱きしめられたって再会に涙されたって血のつながりを実感出来ない 俺はやっぱり冷血な人間なのかもしれない。初めて会う中年の女性は見知らぬ 中年の女性でしかなくて、俺は最初に思った通り産んでくれてありがとうと伝える のが精一杯だった。母様に続き父様も亡くなってわあわあ泣いてた頃、『大哥と 二哥ではだめあるか。香だって湾だっているある、お前はもう兄貴あるよ』と香と 湾の小さい手を握らせてくれたこと、菊が珍しく優しい声で名前を呼んでぎゅっと 抱きしめてくれたこと、そのときのあったかい思い出には敵わなかったから、俺が 本当の母様と一緒に旅立つことはなかった。「今日から食費が浮くと思ったのに 残念ある」「そうですねえ、せっかく夜も幅広く眠れるところでしたのに」「ガチで 何で行かなかったんスか?」「ヨンスって本当にバカ!」と散々文句を言われて 早速ケンカが家に戻ってきた。「俺がいないと寂しいくせにみんな素直に喜んだら いいんだぜ!」俺は久々の馴染んだ空気が嬉しくて大声で叫んだら夜中に近所 迷惑ある!って兄貴にゲンコツを食らった。俺も大人になった今は本当の母様に 時々電話したり母の日や誕生日やクリスマスにはプレゼントを贈ったりしている。 兄貴には何かあるたび中華鍋で殴られて、菊には合コンで失敗するたび韓流 ブームはとっくに終わったんじゃないですかねとかしれっとひどいこと言われて、 香にはニヤニヤ笑われて、湾には脳みそ筋肉だからモテないのよキムチバカと 罵られて、シンデレラのように健気で可哀想な俺はそれでもこの家で五人楽しく 暮らしているから、オモニは何にも心配することはないんだぜ? |