「 四男の嘘とジレンマ 」



 俺が子役として芸能界に足を踏み入れたのは小学校に入る少し前のことだ。
兄と妹と三人で町を歩いているとき、たまたま通りがかったドラマの関係者に
役のイメージにぴったりだとスカウトされたのだった。俺自身は役者や歌手と
いった華やかな職業に対して別段憧れらしきものは抱いていなかったのだが、
すごいすごい!とまるで自分のことのように喜ぶ兄のせいで辞める機会を失い、
当時あまり裕福ではなかった家計の助けにもなるということでそのまま年月を
重ねて結局は大学生になった今でも惰性のように仕事を続けている。現在は
家計も安定しているし、台詞を覚えるのも億劫なので近頃はモデル業がメインと
なった。テレビ露出が少なくなったとはいえ芸能人というのはやはり一般人より
目立つもので、俺は交際相手に事欠いたことがない。つい三日前彼女と別れた
ばかりのところに別の女性が現れて俺は了承した。女癖が悪いと陰で噂される
こともあるが俺から別れを申し出たことはないし、同時に複数の女性と付き合う
わけでもない。大体性交渉どころかキスさえしていない。だからと言って仕方なく
付き合ってるわけでもなくて、食事やデートにも行けば女性に金を出させることは
ないし、強請られればバッグのひとつやふたつはプレゼントする。それでも最後は
決まって向こうから「あなたってつまんないのね」と振られてしまうのだ。原因は
なんとなくわかっている。似たような台詞を何度聞いてたって傷つきもしないのも
そのせいだ。俺はそのたび落胆する。また俺は好きになれなかったんだな、と。
二度目のデートでいつもの台詞を聞くという最短記録を叩き出して夜遅くに帰宅
すると、玄関まで出迎えてくれるのは次兄の菊だ。五人兄妹というのは何かの
機会で発言した記憶があるから俺のファンなら知っているかもしれない。実際は
もう少し複雑な関係で、同腹なのは長兄と妹だけですぐ上の兄は母親が違い、
菊は正確には従兄に当たる。両親を亡くして幼い頃こちらに引き取られたのだと
聞いた。だが物心ついたときにはすでに菊は俺の兄であり、俺は長兄と区別する
ために小兄と呼んでいる。すぐ上の兄は血のつながり云々などは無関係でただ
性格の不一致で兄と思いたくないので呼び捨てだ。どちらにせよ終電も車庫で
とっくに眠りに就いた時刻では兄妹の誰も起きてやしない。中華料理店を営む
大哥には朝早くから店の仕込みがあるし、ヨンスは就活の真っ最中だし、湾は
まだ高校生のくせに夜更かしは美容の敵だと思っている。よく言えば個性的で、
悪く言えばバラバラだ。しかし決して仲が悪いわけではない。湾が産まれたとき、
ヨンスの実母が連絡してきたとき、色々な波乱があって今の円満な兄妹関係が
ある。小兄は明日も会社があるだろうにこうして自分を待っていてくれるのが俺は
密かに嬉しかった。
「む、酒の臭いがしますよ香君!まさか飲んできてませんよね?!」
「ガチで飲んでないっす小兄、さっきまで付き合いでBarにいただけっす」
 わずかに漂うアルコールの残り香に、小兄は盛大に顔をしかめる。未成年の
俺が飲酒をしていたなど週刊誌沙汰は避けられない。昔から小兄は俺の芸能
活動に差し障りそうなことを殊更気にしていた。それもこれも小兄が兄妹の誰より
熱心に俺を応援しているからだ。俺がスカウトされたあの日、手をつないでいた
のは小兄だった。夕飯の買い物に行く途中で右手に俺、左手に湾の手を握って
いた。湾はそれ以前からすでに大きくなったら菊さんのお嫁さんになるのと公言
して憚らなかったが、俺も俺であの頃にはすでに小兄のことを特別視していたと
思う。俺と湾は昔の小兄と同じで早くに親を亡くして、大哥と小兄に育てられた
ようなものだ。大哥は何かと口やかましい性格なのに対し、小兄は何事も静かに
見守っているタイプで、それが記憶に残っていない母を感じさせた。その小兄が
滅多に出さない大きな声で「すごいじゃないですか、香君!」と喜んでくれる、
正直なところ家計より幼い時分にはそれがすべてだった。今も、かもしれないが。
「そうですか、ならいいんですけど。あ、おなかは空いてないですか?」
「A little」
 高校時代に一年間イギリスに留学した影響で、時々反射で出てしまう英語に
小兄は苦笑いでじゃあ何か軽いもの用意しますねと台所に向かった。こうやって
夜食を準備するとき、小兄は俺の仕事を気遣って低カロリーで栄養のあるものを
選んでくれる。蟹肉あんかけの温野菜だとか、蒸し鶏が乗ったサラダだとか炭水
化物も少なく太りにくいものを。体型の変化がモデルにとってアキレス腱なので
大哥の中華料理はなかなか口に出来ない。それも含めて大哥は俺が芸能界に
居座ることに反対だ。大哥は元々俺に店を継いでほしかったのだ。大哥の思いも
俺は知っている。でもまだもう少しだけ、小兄の喜ぶ顔を見ていたい。
『雑誌で香君を見るとあまりにかっこよくて、何だか遠い存在に思えてしまって
ちょっとだけ寂しいんですけど、でもそれと同時に、この子が私の弟なんだって、
すごく誇らしいんです。知らない人にも自慢したくなっちゃったりして。あはは、私
変ですよね』
 過去に俺が載った雑誌や出演した番組、本人が忘れているものですら小兄は
きちんと整理して保存している。俺はそれが少し恥ずかしいが、嫌な気分では
なかった。深夜番組を垂れ流しながら流し台に向かう小兄の背中をそっと盗み見
しているうちに簡単な夜食は出来上がる。今日のメニューは揚げじゃこと豆腐が
乗った春野菜のサラダだ。
「Thanks」
「ふふ、ユアウェルカム」
 箸を手渡しながら英語が苦手な小兄はお世辞にも上手とは言えない発音で
応じる。俺が口に運ぶのを嬉しそう眺めながら小兄は同じサラダを肴に発泡酒の
缶を開けた。半分ほど一気に飲み干して、この一杯のために生きてるって気が
しますねえなんて親父臭いことを言う。確かに小兄はもうそんな年齢だった。この
家系には不老遺伝子があるのかと思うほど大哥も小兄も実年齢よりずっと若く
見える。でも二人ともいつ結婚したっておかしくないのだ。結婚したら、小兄は
家を出て行ってしまうんだろうか。
「…小兄」
「なんですか?」
「ずっと俺のFanでいてくれないっすか」
 小兄は当たり前じゃないですかそんなこと、と何でもないことのように言って
俺の頭を小さい子供のようによしよしと撫でる。小兄の顔がほんのり赤いのは
アルコールのせいだと知っていても心臓に悪い。俺が留学したのは遠く離れて
しまえば一時の気の迷いだと割り切れる日も来ると思っていたからだった。だが
その日はいまだにやって来ない。どんなに魅力的な女性に出会っても積極的に
告白されても実際に付き合ってみても、本当に誰かを愛することのない原因は
ただひとつ。
「香君は私の自慢の弟ですからね」
 そんなことないのに、と俺は心の中だけで呟いて、口では今日も小兄の料理は
マジでパネエとまったく別のことを言う。本当のことは絶対に言えない。あなたの
自慢の弟は嘘つきで、あなたに邪な思いを抱いています。KissもSexも、したい
のはあなただけなんです。そんなこと言えるわけない。苦い感情を飲み込んで、
俺は営業用の偽物の笑顔を小兄に向ける。それがかっこいいと小兄が言った顔
だから。
「I'm glad to hear it」





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