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まだ戸籍が書き換えられてまもない頃のこと、菊は言い慣れぬ異国の響きを 持つ己の姓の発音に若干苦労しながら夜の食卓で突然そんなことを聞いて きた。おおロミオ、どうしてあなたはロミオなの?とシェークスピアの一節を思い 出しつつフランシスは頭をひねる。なんでって言われたって生まれたときから ボヌフォワだしなーと結局は親父がボヌフォワだったから、というごく単純な理由を 話すと、菊はしゅんとうつむき、再び顔を上げて今から変えられないですか?と 縋るようなまなざしでフランシスを見る。姓を変えるには結婚するとかしないと だめだろうなあ婿養子になるとか、生憎予定はさっぱりないんだけども、という ことで変えられないと思うなあと率直に応えるしかなかった。菊はまたうつむき、 食が進まないようで本当は好物であるはずの店で余った近海まぐろの赤身の ぶつ切りも残してしまった。翌日それはをにんにくと生姜入りの醤油に漬け込み、 片栗粉をまぶしからりと揚げて漏れなく菊の胃に収まったが、フランシスはもしや 菊は養子となったことを後悔しているのではないだろうかと不安に襲われる。 おそるおそる尋ねると小さな頭をぶるんぶるんと振るって違います!と懸命に 訴えてくる。フランシスさんはとってもいい人です!不満なんてありません!と 言うのだ。だったら何故そんなことを言い出したのかと問えば、別に…ちょっと 思っただけですとわかりやすくごまかされてしまった。嘘のつけない子なんだなあ とフランシスはそのそっぽを向いた顔にしみじみと思う。その理由は数日後、 担任からの秘密の手紙で判明した。菊の担任を務める教師はフランシスの 見立てでは年は28、9で優しい表情をした洗濯物か料理の香りの似合いそうな 長い髪をゆったりと結んだ女性で、転校初日についていったとき習慣から思わず マドマゼルと手を取ってしまいそうになったものだ。残念ながらマダムです、と 微笑んだ彼女は薬指のマリッジリングを誇らしげにかざした。これは失礼を、と 会釈をした拍子に彼女のデスクに平凡な日本人男性と男の子二人がポーズを 取っている写真が飾ってあるのが見えた。大きいほうは菊と同じぐらいだろうか。 お子さんですか?と訊けばそうだと言う。どうやら実際の年齢はもう少し上の ようだ。日本人は年齢が読めなくていけない。さておき、子を持つ先輩という ことでフランシスは菊の生い立ちの特殊な事情を伝えることにした。彼女なら 信頼できるという何かを感じたのだが、菊に対してどうこうということよりは フランシス自身もアドバイザー的な存在が欲しかったのかもしれない。そうして フランシスと担任との手紙のやり取りが始まったのだが、彼女の性格をそのまま 表すような丁寧な筆致の便箋には「菊君は苗字について同級生にからかわれた ようです」とあった。今のご時世、外国人の子供やハーフなんて珍しくないだろう とたかをくくっていたのだが、たまたま菊の学年にはそういった子供がいなかった らしい。どこまでもついてない子だ。それが先日の質問に繋がるのだなと理解 したフランシスは夕食の場で菊に告げた。来週の授業参観、やっぱり行くことに したからな。菊は驚いた。菊の授業参観のあるその日、フランシスは某有名 ブランドが銀座に出店するにあたりレセプションとしてブランドイメージを料理で 表現するという大役を任されていた。デザイナー自らがフランシスを指名してきた というその重みを、菊は幼いながらも感じていたのだ。だから今回は授業参観に 来れないと知ってしょんぼりしても納得していたのに。父親が外国人って見て わかったらもう変に聞かれることはなくなるだろ?とフランシスは笑う。菊の目に じわじわ水分がたまっていくのをフランシスは確かに見た。きらきらと光を反射 する黒い瞳。最初に会った頃より少し重くなった菊を抱き上げ、額にキスをする。 父子の約束として菊もフランシスの額にまだ覚束ないキスを返した。 授業参観当日、教室という密室には化粧のにおいが充満している。外国人 ばかりでなく、父子家庭というのもこのクラスには存在しなかったらしい。二十代 から四十代まで、派手さを抑えながらもめかしこんだ女性陣が居並ぶそこに、 調理場を抜け出してびしっと勝負服を決め込んだ伊達男が登場し、同級生と その母親たちの視線を一身に集める。あからさまに手を振るフランシスにやや 恥ずかしがりながらも嬉しそうに少しだけ振り返した菊は、それからしばらくの あいだクラスのスターだったと後の担任からの手紙にはそう書いてあった。 |