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叱られる立場となって項垂れている。重い重い沈黙が三十分、もともと正座の 習慣のないフランシスの足はすでに痺れて感覚がない。腕組みをした菊は目を 伏せ、何かずっと考えているようだった。話し合う必要があると言ったのは菊の ほうだったのに、病院からタクシーで移動するあいだも菊は一言も口を利こうとは しなかった。自分の不摂生や不注意が原因で倒れて菊に心配をかけたのは 全面的に自分が悪い、その点についての非難や説教ならいくらでも受け止める 覚悟は出来ていたのにこれはどうしたことかとこの五年、家族として共に過ごす 日々を重ねて菊のことは大体わかっているはずだが、フランシスはこの沈黙の 意味を図りかねていた。秒針の音ばかりが耳につく。いい加減足が限界で、 崩していいかと聞こうとしたそのとき、菊はようやく口を開く。 「…あなたが、私のことで悩んでいたのは知っていたんです。この五年、親子と して暮らしてきてわからないはずがありません。赤の他人である私を引き取って くださったご恩に報いるべきであるのに、あなたの負担となってしまうなんて 耐えられません。親子関係を解消しましょう」 菊はまっすぐにフランシスを見、よどみなくはっきりと言い切った。フランシスが 予想もしなかった発言に驚きを隠せないまま視線を上げると菊は眉根を寄せて 険しい顔をしている。そして立ち上がり、自室に向かうと一通の封筒を手にして すぐ戻ってきた。中身は家庭裁判所にその旨を申し立てる書類だった。すでに 菊の丁寧な字で書き上げており、あとはフランシスがサインするばかりになって いる。はじめから年齢に見合わぬ賢い子だとは思っていたけれどこんな余計な 知恵など身につけなくてもよかったのにとフランシスは歯噛みした。 「ここから出て行くっていうのか」 苦みばしるフランシスの問いに、菊は動揺を見せず率直にはいと頷いた。施設 なり何なり行くところはありますから、私の意思での解消ということであなたに 迷惑はかけないようにしますと菊はなんでもないことのように話す。さっきの長い 沈黙のあいだに心を決めていたのか。いや、今回のことが起きる前から、菊は 決めていたのだろう。まなざしに未練や迷いはなく、五年間二人で積み重ねて きたものはこんなにもあっさりと崩れ去ってしまうものだったのかとフランシスの 心中には怒りさえ湧いてくる。五年、五年だ。こんなにも、簡単に。握り締めた 拳にはいつのまにか力が込められて手のひらに食い込んだ爪が痛む。それすら 気にならないほどの怒りだった。 「お前は平気なのか」 怒りのままに声を投げると、一瞬だけ菊の視線が揺らぐ。頼りない、迷子の 目だ。平気です、と応えようとしたくちびるは震えてうまく言葉を発せなかった。 視線がぶつかり合い、これまでの思い出が走馬灯のように巡る。ひげの当たる キスが嫌だった夜のことから、当然のように受け止めキスを返せるようになった 今までの、五年という長い月日。それを自分から捨てようとしているのだ。菊は おかしいな、と思った。目の前が滲んでフランシスの顔がよく見えなくなった。 ぽた、ぽたと落ちるしずくが平然を装おうとした顔を台無しにしていく。出て行き たくないんだろう?と優しい口調のフランシスの声がそれに拍車をかける。菊は 必死で当初の決意を思い出し、制服の袖で涙を拭うとあなたの負担になりたく ないんですともう一度繰り返した。 「どうして負担だと思うんだ。負担なんかじゃない。お前は出て行かなくていい」 「でも、そうしたらあなたはまた私のことで悩んで眠れなくて倒れてしまう。私が いるとあなたに迷惑をかける。あなたはまだ、結婚もしていないし」 「そんなこと別にいいんだ、お前は何も気にしなくていい」 「…気になりますよ!」 いくら賢くてもまだ子供だと、言葉で丸め込もうとするフランシスに初めて菊が 声を荒げた。菊は大人びたというか老成したというか、とにかく子供らしくない 子供で、感情のままに大声をあげることを良しとしないところがある。それが、 涙を流しながらもキッとフランシスを強くにらみつけ、怒鳴ったのだ。しかし、自分 自身その珍しい行為に気づいて驚いたのだろう、菊ははっとして口元を押える。 そして風船が破裂して、空気が抜けたようにしゅんとしおれた菊は涙を止めよう と何度も目元を擦る。そんなふうにしては目を傷めるだろうとフランシスが手を 退けようとすると、幼い子供のようにかぶりを振って嫌がってみせる。それを力で 押さえつけ、最初の夜と同じく小さな頭を抱え込んで胸に押し付けると次第に 落ち着きを取り戻したのかやがてひっくひっくと音を立てながら涙は少しずつ おさまっていった。 「…菊」 いつしかあまり触れないようにしていた柔らかく艶やかな黒髪を久しぶりに撫で ながら名前を呼ぶと、菊はゆっくり顔を上げた。クリアになってきた視界の中で フランシスがよくする、困ったような笑みを見てまた下を向くと、菊は一旦閉ざした 口を再び開き、三度あなたの負担になりたくないと言い、その理由を告げた。 「だって、だって私、あなたのことが、私は、あなたのことが、」 己への怒り、未練、迷い、混乱、戸惑い、悲しみ、恐怖、すべてのものを取り 出したパンドラの箱にはひとつしか残っていない。菊の本心にあったものは。 「好き、なんです」 |