3rd Stage




 一時限目の最中のことだ。教壇に立っているのとは別の教師が授業中だという
のに突然扉を開き、ボヌフォワ!とそこいらの日本人には耳慣れぬだろう菊の
姓を呼んだ。最初はどこへ行っても異質な目で見られたものだが父親が外国人
だと知る者はすぐに受け入れてくれた。少しも似ていない容姿のことについては
幸運にも触れられはしなかったが。ともかく、教師が菊を呼んだのは学校に菊の
父親が倒れたという知らせが入ったからだった。菊は慌てて荷物をまとめ、学校
から教えられた病院に急行した。受付でその旨を説明すると処置室の前で待つ
ように指示され、まだ午前ということで患者やその付き添いなどでごった返す
待合室を抜けてぽっかりとそこだけまるで別の空間であるかのように人気のない
廊下の長椅子に菊は腰かける。急いで走って来たせいもあって心臓や血管が
どくどくと悲鳴をあげて、今にも破裂してしまいそうだった。汗もかくほど体は熱い
のに、背中の首から腰のあたりにかけてが異常に冷たい。背筋が冷えるという
ことを身をもって実感し、菊は閉ざされた扉をじっと見つめていた。時間は実際
には三十分ほどだったが菊には永遠のような長さにも、あっという間にも感じた。
ここに来るまでは脳が考える容量をなくしてしまったように何も考えずにいられた
のに、ただ座っているとだんだん不安になってくる。あたりは消毒液の臭いが
漂い、行き交う人は病を患って具合が悪そうだったり怪我をして包帯やギプスを
つけていたり、病院であれば当然のことだというのに当たり前の事実が今の
菊にはひどく重い事実だった。思えばフランシスは菊を引き取ってから一度も
病気らしい病気をしたことがなかった。最近様子がおかしいことは知っていた
のに、それが体調が悪いせいだとは考えもしなかった。実の親は生きているか
死んでいるかもわからないし、もはやどうだっていい。菊にはフランシスしか
いなかった。神でも仏でも悪魔でもフランシスを救ってくれるなら誰でもいいから、
と祈るような気持ちで震える手を組んでいると、ようやく扉が開く。お大事に、と
険しい表情で去っていく医師に続き、フランシスは看護師の若い女性の腰に
手を回し、親しそうに話しながら自分の足で処置室を出てきてそこに立つ菊の
姿を見つけるなりまずいところを見られた、という顔をして距離を置き、そっぽを
向いた。その頭には包帯が巻かれている。
「フランシスさん!」
 幸いフランシスの周りの状況は目に入らず、菊は包帯だけを見てほとんど泣き
そうになりながら抱きついた。料理人に香りのするものはタブーだ。フランシスの
服や体には彼の作る料理のいいにおいが染み付いていて、菊はそれが気に
入っていた。抱きついたフランシスからは変わらず同じにおいがして、消毒液の
臭いに麻痺し、中毒でも起こしそうだった菊にはそれが鎮静剤のような作用を
もたらした。大丈夫なんですか?と潤んだ目で尋ねるとうん、まあ、大丈夫、
その、あれだ、と口ごもるフランシスに代わり、看護師は倒れた経緯を説明して
くれた。出勤途中に不意のめまいに見舞われ、階段から転げ落ちそうになり
咄嗟に商売道具の手をかばったところ頭を打って脳震盪を起こし、駅員が呼んだ
救急車によって運ばれてきたのだという。頭の傷はたいしたことはなく、運ばれる
途中で取り戻した意識も明瞭で、検査の結果も問題なし。問題といえば治療中
女性看護師を口説いてみせて医師を呆れさせたことぐらい。しかしながら医師も
いろんな患者を診ている。その程度では動じない医師の咎めを受けたのはこの
怪我の元凶、めまいの原因だった。眠れないことに焦れて、フランシスは日頃
睡眠薬と酒を一緒に摂取していたのだ。それを聞くや否や菊の表情が変わる。
無事を喜ぶ半べそから一転、帰ってから話し合う必要がありますね、と薄ら寒い
半笑いにドスの利いた低い菊の声がフランシスの背筋をぞわぞわと冷やす。
フランシスは父親の威厳の欠片もなく、はい、すみません…としょんぼり返事を
するばかりだった。





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