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にはたっぷりのミルクを。サラダは彩りよく、特製のドレッシングをかけて。あとは かりかりに焼いたベーコンを添え、そして皿の中心に菊は朝食の主役を乗せる。 バターの香り漂う発色のいい黄色をしたオムレツだ。ここ二、三年で朝食の支度 はフランシスから菊の手に引き継がれた。直伝のオムレツは今日もうまく焼けた というのに、もともと朝に弱い体質であるらしいフランシスはお役目御免をいい ことにいつもギリギリの時間まで惰眠を貪っている。中学の制服にフランシスが 買ってきたやけに少女趣味なエプロンをつけて、ちぐはぐな格好をした菊は本日 三回目のスヌーズが鳴ったところで我慢の限界を迎え、義父の寝室のドアを 蹴破った。ベッドの上にいまだ目覚めぬフランシスを捕捉すると全体重を乗せて みぞおちに肘を落とす。ぐえっとカエルのつぶれたような声を出して強烈な朝を 迎えたフランシスは次なる攻撃を恐れ、ギブ!ギブ!起きる、起きるから!と 這う這うの体で布団からのそのそとした動きで這い出した。菊がフランシスの もとに引き取られて早五年。愛情を注がれることに慣れない、当たり前の家族 関係というものをまるで知らずに育ち、戸惑っていた菊もすっかり慣れたもので ある。問題らしい問題は菊が少しばかり短気であることぐらいで、あんなことが あったにも関わらずまっすぐに育ってくれて父としてフランシスは喜ばしい限り だった。そう、何も問題はないはずだった。問題は、何も。早くパンツはいて来て くださいね!せっかくのオムレツが冷めちゃうじゃないですかと怒り肩にどしどしと 足音を立ててキッチンへと戻ろうとする背中をへいへいと片手をひらひらさせて 見送るフランシスの傍ら、サイドテーブルに置かれた琥珀色の酒の残るグラスを 菊は見逃さなかった。やっべ、というかんじに目を逸らすフランシスと、青筋を ひとつ増やした菊。先に口を開いたのはやはり菊だった。 「何べん言ったらわかるんですか!寝酒は体に悪いって言ったでしょう!」 「はいはい俺が悪かった悪かったよーもう飲まないからさあ」 「もう聞き飽きました!」 昔から変わらず寝巻きを着ないフランシスが半裸もあらわに両手を上げ、もう 降参とばかりにいい加減に応じると今度こそ菊は沸点を越えて乱暴にドアを閉め 出て行った。菊の言うとおり、寝酒がかえって良質な睡眠を妨げているのは百も 承知で、それでも眠るために酒の力を借りなくてはならない理由をフランシスは 胸の奥に隠している。ベッドに腰かけてぼんやり考え事をしていると落ち着きを 取り戻した菊が戻ってきてドアの隙間から顔を覗かせ、早く来ないと一緒にご飯 食べれなくなりますからねと釘を刺すのを忘れなかった。わかってるよと返事を すると静かにドアが閉まる。フランシスがのたのた服を着ているあいだに支度が 終わったはずのキッチンからは包丁のとんとんと刻む音が聞こえてくる。洋風の 朝食にミスマッチなメニューながら、二日酔いに効くしじみの味噌汁でも作って くれてるのだろう。本当にいい子だ、と思う。菊に料理を教えたのはフランシスで あり、そのほかのことも、実の親から受けられなかった愛はすべてフランシスが 与えたものだ。それを菊は素直に受け取り、返そうとしてくれている、それを ひしひしと感じる。だからこそフランシスは居たたまれない。 菊が家を出る時間はフランシスの出勤時間よりも早い。あっという間に父子 二人の朝食が終わると菊は手早く学校に行く準備を始め、かばんを手に慌しく 出て行く息子をいつものんびりカフェオレを飲みながら見送るのがフランシスの 常だ。しかしいつもどおりいってきます!と駆け出した後姿にいってらっしゃいと 声をかけて数分もしないうちに、忘れ物をしたのか再びドアが開き、菊が戻って きた。なんだ、財布か?時計か?と尋ねると 「朝のキスがまだじゃないですか!」 菊は息を切らして言うのだ。律儀なものだ。引き取ったばかりの菊は無条件に 与えられる愛に対して慣れないどころか、怖がってさえいたのだ。それも仕方が ない、菊にとってはまったく未知のものであったのだから。だから俺がキスを したら、菊はキスを返してくれと提案することでフランシスは愛には愛で対価を 示さなければならないことを教えてやった。起きたとき、出かけるとき、帰って きたとき、寝る前と少なくとも一日四度。日本の風習ではないし、本国でもこれが 普通、というわけでもないが。そこを教えるのを忘れたおかげで小学校から呼び 出されたこともある。同級生のファーストキスを奪ってしまったじゃないですかと 菊はいまだに根に持っているが頬なら回数に入るもんじゃないし、第一相手が 菊なら儲けもんってもんだ。さておき、その習慣は五年経った今でも続いている のだ。ああもう!と菊はもどかしげに靴を脱ぎ、フランシスのところまで来て頬に 親愛のくちづけをしようとした。それを今日に限ってどうしたのか、フランシスは 手を出して菊を避ける。 「なあ、もう菊も大人なんだし、キスは止めないか?」 「何言ってんですか、減るもんじゃないですしケチケチしないでくださいよ」 ケチとかそういうことじゃないだろうと内心で思うフランシスを見事に一蹴し、 菊は音がするような派手なキスを頬にぶちかまし、急いでるので早くしてください フランシスさんと己の頬を突き出す。渋々フランシスがキスを返すとじゃあいって きます!と再び菊はバタバタと出て行き、ああいってらっしゃいと再度見送った。 フランシスは大きなため息をつき、カフェオレを一口飲む。静かになった部屋は やたら広く感じる。先ほどの自身の言葉が頭の中に響く。もう菊も大人なんだし。 大人、そう菊はあの通り成長した。けれど成人と法的に認められるのはだいぶ 先のことで中学生といえばまだまだ成長の余地はたっぷりある。五年前のあの 日と状況は何も変わっちゃいない。大人の庇護の要る年齢だ。ただひとつ、 変わったのは。 「―――俺のほう、なんだよな…」 ミルクが多めのはずの菊特製カフェオレの苦いこと。同じ分量で作られている はずの菊の残したカップに手を伸ばすと、一口でいっそ罪なほど甘いのは何故 なのか。答えを出そうとする自分に必死で蓋をして、フランシスは今日も眠れぬ 夜を過ごすのだろう己を呪った。 |