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移り住んで三年が経った。当初不安だったフランス語も幼い頃からネイティブが そばにいたおかげで思ったほど苦労はなく、苦手の英語はそもそもパリ市民の ほとんどが口にしないため日常生活に支障はなかった。大学では日本人という ことでまだ翻訳されていない漫画やアニメについて質問責めに遭い、菊もまた そっち系統の人間であったので友達は日本にいたときより多いかもしれない。 フランシスの勧めで始めたカフェでのアルバイトも特に問題はなかった。あえて 難点を挙げるならフランシスが日本から掻っ攫ってきた大事な恋人ということで 古馴染みらしい老マスターに過剰なほど大事にされているのがかえって申し訳 ないことぐらいだ。自分の店を持ったフランシスは日本にいたときのように帰りが 九時十時を越えることなく八時前には帰宅する。そして恒例のお帰りなさいの キスをして、朝市で購入しておいた新鮮な素材を使った日本風の夕食を一緒に 取り、食後は渋い緑茶で一服するのが何より落ち着く時間だと言う。フランス人 なんだか日本人なんだか十年以上一緒に住んでいてもよくわからない人である。 店の経営も順調らしく、あまりにも何もかもがうまくいきすぎて元々ラテン気質の 楽天家ではない菊には複雑だ。だがキングサイズのベッドで共に眠りにつくとき など菊が少しでも表情を曇らせていると幸せすぎて怖いってか?と揶揄しながら 目元に額に鼻先に何度でも優しいキスが降ってきて茶化すのかと思えば一転、 真剣な面持ちで何が起きたって俺が守ってやるからと抱きすくめられて、昔と 同じに体温を分け合って眠ってしまえば胸の内に潜む不安や焦燥が嘘のように 消え去ってしまうのだから気質というものは伝染するものなのかとしみじみ思う。 時にはそのままなし崩しに悩んでいる暇もなくなるほどの激しい運動に及んで しまうこともあって、お互いに仕事や大学もあるので"その日"は決めてあるのに 約束違反はしょっちゅうだ。すると翌日の朝食はフランシスが作る羽目になるの だが、それは自業自得と言える。あるときこれ見よがしにキスマークをつけられて 大学の友達に問い詰められたこともあった。そういう年頃で好奇心旺盛な彼らに 隠し通すのは難しく、同性の恋人の存在を明らかにしなければならなくなった。 しかし国民性の違いか誰も偏見の目で見てくることはない。それどころかすでに 恋人がいることを残念がる輩までいて、きっとキスマークは牽制の意味合いも あったのだろうなとあれでいて結構嫉妬深いフランシスの本質を垣間見た気が する。そうしてその日の講義を終えてバイト先のカフェで接客をしていると、珍しく 英語を話す客がやって来た。菊はもちろん店員の誰もが英語が苦手だった。どう 接客すればいいか話し合い、店員の中で一番最近まで英語教育を受けていた のは最年少の菊だということで不本意ながらお鉢が回ってきた。「ご注文は何に なさいますか?」と、どちらかといえば日本で教育を受けたアメリカ寄りの英語で 尋ねればそれが違和感を持って聞こえたのか、英字新聞に集中していた客は 菊を睨むように見上げる。太い眉の下、品定めするような緑の鋭いまなざしが まっすぐ突き刺さっていたたまれない。長い長い間があってやがて客は「お前、 フランス人じゃないな」と英語で言った。癖のない見事なクイーンズイングリッシュ だった。おそらくは海峡トンネルを通ってビジネスか何かで訪れたイギリス人だ。 「はい、日本人です」と得意の愛想笑いで応じてどうか気分を損ねませんようにと ひたすら祈るばかりだ。「…ボヌフォワ?」不意の問いかけに菊は咄嗟にはいと 返事をした。胸元のネームプレートを見れば名乗らずとも菊の姓は明らかだった。 「…もしかして、フランシスのヒゲ野郎が掻っ攫ってきた日本人の恋人って…」 菊の頭のてっぺんから足の先までをじろじろ見て、客はわなわなと怒りで震える 拳のままにつぶやいた。「えーと…その、私、ということになります」とごまかしも 通じなそうな彼に正直にそう答えた途端、「Damn it!」と教科書や参考書には 載っていなかった英語が飛び出してきた。延々続く早口の英語は菊には何が 何やらわからなかったが、天敵の来週を第六感的なもので察知して店を早々に 閉めてきたフランシスが菊を迎えに来ると、客はその顔を見るなり呪詛のような 英語でまくし立てた。後に聞いたところによると「タダ食いできるからってわざわざ パリくんだりまで来てやったけど、カフェでかわいい店員が見つけたからてめえ なんかのクソまずいメシより二人で紅茶でも飲もうとしたらお前の恋人だと!? ふざけんな!まだ子供じゃねーか!」みたいなことを言われたらしい。二人の 激しいやり取りのあいだに入ることも出来ず、おろおろしたまま帰宅すれば例の イギリス人はなんだかんだでついてきたのでフランシスの大反対を受けながらも 三人分の夕食を用意すれば庶民の日本食を味わう機会はイギリスではなかなか 味わえないそうで、フランシスが食器を洗っている隙に「あんな男より俺のとこに 来ないか?」と誘われてしまった。菊は何か本場のジョークの類だと思って「観光 ですか?いいですね」と応じていたのが警戒心剥き出しのフランシスの耳にも 届いたらしく、客は名前も聞く前に文字通りドアの外に蹴り出された。「お友達 なんでしょう?あんな扱いじゃ可哀想じゃないですか」と菊が言えば「バカ言え! あいつお前をナンパしてたんだぞ!」とやはり嫉妬を丸出しにして玄関に塩まで まく始末だった。確かにその後も彼はたびたびカフェに来て、毎度フランシスに 追い払われての繰り返し。まだ子供じゃないかという誤解は訂正しなくてはと 思うのだけれどその機会は当分許してもらえないようだった。そんなこともあって フランシスから思いがけない贈り物がひとつ。「イギリス人に限らず誰かにナンパ されたら見せてやれ!こっちの野郎は手が早いんだ!」といつの間にサイズを 把握したのだろう。左手の薬指にぴったりはまる邪魔っ気な宝石のひとつもない シンプルさがかえって品のいい、一日中つけていられそうなプラチナの指輪だ。 裏側にお互いのイニシャルやありきたりのメッセージはなく、そこには「すでに お手つきです」とだけ書いてあって菊は頬を緩ませた。店を開ける際、店名に 菊の名前を入れたがったフランシスもマダムのお誘いを受けることがあるそう だが、勤務中はチェーンに通したおそろいの指輪を胸元にぶら下げてことごとく 撃退しているのだと笑う。ちなみに店の名前はそのうち某格付け誌に載って菊が 有名になったら困るから、という理由で「SAKURA」と無難な名前がつけられたと いうことだ。他に寄る辺のなかった哀れな幼子ではなく、政府にも認められた 人生のパートナーとしてボヌフォワ姓を名乗り、菊は現在パリで幸せに暮らして いる。 |