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寸前まで読んでいた古い本を手慰みにぱらぱら捲ってはいつでも対応できるよう身構えていたの だが、扉を鳴らす者が一向に現れないことに少しの落胆を覚える。何かあったらたとえ真夜中で あろうと遠慮せず報告してほしいと、信頼を寄せる片腕であると共に気の置けない友人でもある フレンには伝えてあるはずだ。にも拘らず、実際はこうして私ひとりが蚊帳の外に置かれている。 仮にも皇帝である私を叩き起こすほどの用件ではないからだと安寧の良夜を祈りつつ、どうやら そうではないだろうことは長年不毛な権力闘争の中心にあり、何度も命の危険に晒された経験が 否定している。 石を投じた水面のように、静かに波紋は広がっていく。波紋は騎士の動きであり、私の動揺でも あった。フレンとて意図的に私の希望を軽んじているわけではないと理解しているにせよ、一抹の 寂寥は拭えない。こんな風に心が揺らぐとき、脳裏をよぎるのはいつも別の顔だ。現騎士団長の 親友、知られざる救国の英雄、私の命の恩人。 振り返ってみると、彼には厳しい言葉しか掛けられていないように思う。親友の身を案じるフレン 同様、その功績を世に知らしめたいと願いながら結局は聖騎士の叙勲さえ受けてくれなかった。 ガラじゃねえよと皮肉屋らしい笑みを見れば私を嫌っているせいではないと察することはできた。 しかし、納得しているかといえば答えは否だ。今でも諦めていない、隙あらば掻っ攫ってやろうと 獲物と定めた獣の気分で私は彼の稀な来訪を待っている。が、正直これは予想外だ。いい加減 待つのも焦れて、私のほうから足を運ぶことを決めた。 深夜なので声量を抑えてはあるけれど、階下からはしきりに医者を呼ぶ騎士の声が聞こえる。 医務室に足を向けるも皇帝とは実に不合理な生き物で、よほどの事態でない限り走ったりしては ならないのだ。それは下々の者に余計な緊張と不安を与える。悠然と歩き、どうかしたのですかと 平素と変わらぬ声の調子を心がけて騎士のひとりに尋ねる。途端、カッと踵を鳴らして胸の前に 右手を掲げる礼がいかにも規律正しい。聖騎士殿が重傷を負って担ぎ込まれました!フレンの 影響の色濃い、はきはきとして訓練の行き届いた受け答えだった。 聖騎士と呼ばれるからには思い当たる人物はひとりしかいない。本人が認めていなくても彼を そうと認める者が存在すると知って、私は心密かに喜んだ。頬を緩めている場合ではないと 承知 してはいるのだけれども。彼は中に?と続けて問うと騎士は重く頷いた。そういうことならば私にも できることがある。医務室に入ろうとした瞬間、開いた扉から出てきたのはひどく憔悴した様子の フレンだ。その硬い表情から、帝国屈指の名医でも手に負えない傷の深さを悟る。 折悪しくエステリーゼは数日前にハルルの別宅に赴き、帰還の予定はまだ先だった。フレンの ことだからすでに早馬は手配済みであろうが、早くても着くのは夜明けを過ぎて夕刻近くになる。 凛々の明星の一員たるあの空を泳ぐ始祖の隷長が今ここにいれば朝までには何とかなったかも しれない。二つめの不運として、彼は帝国の依頼で帝都周辺の魔物掃討を目的とした遊撃隊と 同道中だった。この果てしない世界、どこにいるとも知れない彼の仲間に連絡を取ろうとするより エステリーゼを待ったほうが早くて確実だろう。最も重要な点はそれまで彼が保つかどうかだ。 星喰みの出現、魔導器の恩恵と引き換えに永らえた人類、少しずつ変化していく世界。かつて、 この地域に生息する魔物は大きな脅威ではなかった。まして彼ほどの手練とあらば赤子の手を 捻るより容易いはず。それがこのような事態に陥った背景には武醒魔導器の消失、新人騎士の 急増、生態系の急変が関係している。おおかた彼は戦いに慣れない者を庇って深手を負ったに 違いない。これらの事象は誰かひとりに責任があるわけではないのに、彼は負い目を感じている 節がある。そうでなくても彼は目の前の危機を見過ごせない男だ。だからこそ、私は生きている。 炎と煙が渦巻く中、彼は自分自身を危険に晒してなお沈みゆく船から見ず知らずの他人を救って くれた。何の打算も計算もなく、何の見返りも求めずに。 彼は常々意地の悪い顔をしてエステリーゼは放っとけない病だと揶揄するけれど、彼も他人の ことは言えないだろう。彼の噂を耳にするたびフレンは誇らしげに笑っていた。あいつはそういう やつなんです、だから僕も彼のことが放っとけない。彼も彼でフレンに対して同じように思っている だろう、放っておけないと。心底羨ましく思う反面、彼らのような強い絆はある種の危うさを秘めて いる。先の大戦の英雄がそうであったように。無論、あんなことは二度と起こさせやしない。私の 治世が続く限りは、絶対に。故に、私はフレンに成り代わりたいと思わないのだ。彼のため、彼が 守った世界のため、これからの世界のため、私には私にしかできない役割がある。それは私の道 であり、私の誇りにもなるのだ。 陛下、と沈痛な面持ちで呼んだフレンに詳しい説明を求める。内臓に達するまで深々と横腹を 裂いた傷はすでに縫合が済み、出血は落ち着きつつある。だが、ここまでの出血量が多すぎた。 寝台に沈む体が纏う装束は赤く染まり、布地自体原型を留めていない。反対に皮膚の色は紙の ように白く、まるで生気が感じられない。わずかに上下する胸を確認しなければ、死んでいるの ではないかと。あるいは、彼がはじめから陶器の人形だったかのように。などと、我ながら呆れて しまう醜態だ。くだらない妄想を消し去るためには彼が必要だった。早く目を覚まして紫を帯びた 不思議な色合いで私を見てほしい。それから「俺なんかにくだ巻いて、何やってんだよ。皇帝陛下 ってのはよっぽど暇らしいな」と刺々しい物言いをしながら「そんなに暇なら茶のひとつでも淹れて くれよ、アンタんとこの茶は悔しいけど一番うまい」と思いも寄らない賛辞で、私を恋に浮かれる ただの愚かな男にしてほしい。 力なく敷布の上に投げ出された彼の手を両手で包み込んで、息を殺し、目を伏せ、全身を巡る 血の証を一点に集中させると、笑ってしまうほど弱々しい黄金の光が燭台頼りの薄暗い医務室を ほんの一瞬照らしだす。同じ満月の子の血を受け継いでいても、私のそれは治癒術とも呼べない ような代物でしかなかった。エステリーゼが羨ましい。たまたま強い力を持って生まれてしまった せいで誰よりも苦しんだ彼女が、それでも羨ましい。彼の苦痛を和らげることさえできない事実と 表に出せない焦燥が今にも弱音を吐きかねない心に深く突き刺さっていた。 不意にありがとうございます陛下、とフレンが感謝を口にした。何に対する礼だろう。私は彼の 罪を知っている。彼の負った業を知っている。私は法が掲げる正義と、その名の下に黙殺される 犠牲、私自身の無力を知っている。礼を言われる筋合いなぞどこにもない。ただ、先ほどよりも 心なしか彼の頬に赤みが差したように見える。もし都合の良い幻覚でないならば。どうか、どうか 今だけ、意識がない今だけでも、私がただの私として傍にあることを許してほしい。私が抱くべき でない感情を許してほしい。どうかせめて。夜が明けるまでこうしていても良いでしょうか。癒しの 力を盾に縋るよう見上げたフレンは、快諾どころかこちらこそお願いします陛下、傷が癒えてから みんなでこってり絞ってやりましょうと私を励まし、無二の親友を私なぞに預けてくれる。フレンは 本当に得がたい友だ。今度は私が礼を言う番だった。 |