「 双方向通信は失敗しました 」



 許されると思ってんのよ。細長い煙草の吸い口に真っ赤な紅の乗ったくちびるを寄せて、女はやや
呆れたように言った。厚い布で窓を覆う店内は昼間でもぼんやりと薄暗く、年中甘ったるい香を焚き、
同じ下町にある酒場でありながら性質的には箒星とはまるで異なる様相を呈している。要するに酒を
楽しむための酒場ではないということだ。目的地たる二階に並ぶ小部屋は現在営業時間外で完全な
無人だった。ついさっきまでひと部屋埋まっていたが、小一時間滞在したのち片割れはさっさと金を
支払って出て行った。労わる言葉ひとつ得られないまま残されたほうが疲弊した体をずるずると重く
引きずるように階下へやってくると馴染みの女主人が出て行くのを呼び止める。身繕いはそれなりに
済んでいたけれど、喉に指の食い込んだ痣が薄く残っていたせいだ。お行儀よく前をきちんと留めた
ところで帰路鉢合わせするかもしれない人々の目をうまく誤魔化せるとも思えない。帰るならせめて
日没以降、人通りの減る時間まで待ったほうがいい。仕方がないと助言に従って夕方まで暇を持て
余すそのあいだ、奢りだと差し出された琥珀色の蒸留酒と蜂蜜を垂らした温かいミルクをちびちびと
やる。それでも退屈な顔に変化はない。ひとつ空の席を挟んでどっかり腰かけた女主人がこれまで
見てきたろくでなしどもの愚痴を延々並べ立て、とどめとばかりにあの優等生の彼でさえ辛辣にそう
評するのだ。許すも許さないもないだろうと思っている時点で許してしまっているのだと指摘されれば
ぐうの音も出ない。
「フレンも大概だけど、あなたって本当にだめな子ね、ユーリ」
 長々と吐き出された煙まで甘ったるくて胸が悪くなりそうだ。今すぐ表通りに出て、人々の賑わいと
雑踏の砂埃の入り混じる場所で健全な呼吸がしたいと詮のないことを願ってしまう。

 ひと昔前の頃のフレンはひどくザラザラとしていた。ザラザラというのはユーリ独自の表現である。
身近な人間に同意を求めると逆に説明を要し、元々説明しにくい感覚的なものををしどろもどろ説明
したところで理解を得られたためしはない。以来きっぱり諦めて、そういったものは心の中に留め置く
ことにしている。ザラザラなのはトゲトゲと荒れているわけでもなく、ツンツンと苛立っているわけでも
ないが、なんとなく引っかかりを覚える状態、というのが近い。そんな言動がしばしば気になって仕方
なかった。だからといって、特にどうこうする手立てもない。たまの休みに下町に帰っては休みなんて
ことも忘れて男手の必要な手伝いをユーリ共々引き受けて回り、その合間、最近どうよと軽く様子を
窺って、まあまあだよと曖昧な返答を得るという、しょうもないやりとりを繰り返す程度。小隊長に昇進
するずっと前の話だ。
 風の噂でお偉いさんの覚えもめでたく同期じゃいちばんの期待株とかなんとか。そりゃあ当たり前
だろう、あいつは誰よりも理想が高く、そのための努力も惜しまない男だとユーリはひとり納得する。
なのに生まれや育ちがそんなにも大事なんだろうか。物心ついた頃から散々悩まされてきた問題が
いまだ正当な評価を妨げているのだと思うと殊更悔しい。けれどフレンはあの性分だから不平不満を
どこかにぶつけたりしないし、そこで腐って道を歪めたりもしない。それが余計腹立たしく、つい、八つ
当たりしてもいいんだぜと唆してしまった。俺なら多少無茶しても大丈夫だし、わかってっから。
 俺はお前のことをわかっている。
 今にして思えば、単にそれが言いたかっただけなのだ。絶対にわかっちゃいない、わかっていたら
ぐっと歯を食いしばって耐えていたフレンに安易な考えでわざわざ性質の悪い逃げ道を作らせたりは
しない。あるいは、そうすることで繋がりを持っていたかったのかもしれない。たとえば約束を違えた
罪悪感だとか、ひとりでも自らの道を歩もうと戦い続けるフレンに対してのある種の羨望だとか、焦り
だとか疎外感だとか、そういう良からぬものを集めて撚って、そうして出来あがった糸に甘い言葉を
ぶら下げて、飢えた獲物が食いつくのを待っていた。そんな気がしてならない。あれは決して完全な
善意からなるものではなかった。だからこそ、得られた結果はこんなにも望んだ形と食い違うのだと
言い聞かせて自己嫌悪に酔っている。それが不思議と心地いい。

 周囲の者がどんな風に見ようとフレンは神様ではないし、絵本の王子様でもない。生身の人間だ。
しかし実のところ、いちばん見誤っているのはいちばん身近な者のような気がしてならない。フレンと
いう男を何だと思っているのだろう。負の感情も、浅ましい欲もきちんと持ち合わせたひとりの人間で
しかない。だからフレンはろくに慣らしもせず事を進め、なるべく荒っぽく抱いて、始末もしないで必ず
気を失っているうちに部屋を出ることにしている。わかっていると言いながら、その耳に注いだ言葉は
いつも彼の心をすり抜けていく。実の伴わない甘い睦言なんか真っ平御免だった。
 きっと虚しさを抱いて出てきたのだ。階下からいまだ片割れの出てくる気配のない部屋を見つめる
横顔に、女主人が何か飲まないかと声を掛ける。飲みたそうな顔をしていた。けれども丁重に断って
多めの代金を置き、代わりにあいつに何か飲み物をと頼む。喉が痛めたかもしれないからと。それを
聞いた途端、女主人から大きなため息が出る。長い付き合いだ。大体の事情は察していて、余計な
口出しはしたくないし、そもそも客の色恋沙汰には関わらない主義だ。他人様の恋路がどう転ぼうと
知ったこっちゃないものの、若い身空でここまで厄介にこじれているのも珍しい。つい行く末が心配に
なった。どう受け止めるかは当人に任せ、出て行く前に名を呼んでみる。すると硬質な仮面は簡単に
剥がれて、叱られた子供のような表情が覗いた。
「あいつに嫌われるにはどうしたらいいんでしょうね」
 もし本当に嫌われたいのかと尋ねたら、フレンは途方に暮れてしまうのだろう。許してはいけない、
逃がしてはいけない。甘えても、甘やかしてもいけない。いつの間にか、がんじがらめになっている。
そうやって本当の気持ちから目を逸らした結果がこれだ。何を怖がっているのやら、繋がっていたい
その心を、手放したくないその心を、素直に明かしてしまえばいいものを。
 昼間の世界に出て行く間際、女主人が誘う琥珀色を一瞥して舌なめずりをする。本当は今すぐ喉を
焼かれたい。彼女の容赦ない言葉とこの空虚が、不思議と心地いい。
「ユーリも大概だけど、あなたって本当にだめな子ね、フレン」





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