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気づいたのか俺にはわからないが、気がつくとそのことに認識している自分が いて、ひどく不思議な感覚だった。週に一度ほどの頻度で、そんな夢を見る。 夢の中の俺はどこかの住宅街にいる。そして見知った道のりのように迷いもなく 進み、とある喫茶店を見つける。住宅街では少しばかり浮き気味なくすんだ グリーンに着色された木材を多く使用したかんじのいい喫茶店だ。ドアを開ける とカランカランとベルが鳴り、老マスターがいらっしゃいと迎える。俺は決まって 窓際の一席に座る。そこはイングリッシュガーデンを模した薔薇の多い庭に 面しているからだ。夢だというのにそこはちゃんと緑のにおいがして、とても 落ち着く。まもなくマスターの夫人が注文を取りに来て、ミルクティーと日ごと 変わるお勧めのケーキを頼む。この日のケーキはラズベリーのムースだという。 まもなく運ばれてくると鼻をくすぐる香りに口元が緩むのがわかる。ごゆっくり、 夫人は品のいい微笑みを浮かべて去っていく。英国びいきの老夫婦は本当に 質のいい茶葉を選んでいて、香りも味も申し分ない。俺は腕時計を見る。遅い、 と思う。何のことだろうとその得体の知れない焦りのような感情を疑問に思って いればまたベルが鳴った。店の入り口を見ると息を切らせた男が立っている。 まるで知らないやつだが、夢の中の俺とは顔見知りらしくそばにやって来ると お待たせしましたと頭を下げる。別にいい、座れよと言えば向かいの席に座り、 もうすぐ薔薇も咲きますねと窓の外を眺めてつぶやいた。彼は夫人に自分と同じ ものを頼んだ。もう何度夢の中で、この店で、彼と茶を飲んだか知れない。まるで 知らないやつであるのに、既知の仲であるような錯覚さえ近頃では感じられる のだ。俺は彼の名前も知らないというのに。今日はラズベリーですか、と彼は 笑った。おいしそうですねと凝った細工もない素朴な形をしたムースを嬉しそうに 眺めている。ここのケーキは夫人の手作りのものだ。見栄えはそこそこだが、 味は逸品だ。アーサーさん、と彼が俺の名を呼んだ。今日は何かいいことが あったんですか?彼はこちらを探るような目をして笑う。 「別に、お前にすっぽかされたんじゃないと知って、安心したわけじゃない」 不機嫌を装って俺はそっぽを向いた。この素直じゃない性格は夢でもなんとか ならないのか俺よ。俺の内なる葛藤など知りもせずにふふ、そうですか、と彼は 笑みながらムースにフォークを刺した。ムースと紅茶を味わって、私も、あなたに また会えて良かったと思います、そう言って目を細めた。 「―――、」 俺は何かを言った。それは彼の名前であるはずなのに、肝心のそこだけ現実 の俺には聞こえず、けれど彼の耳には届いたようだった。なんです?と彼は首を わずかに傾げる。俺は何かを口に出そうとする。何かを伝えようとする。何か、 何かを、彼に。…そこで、夢は終わった。目覚めてここが自宅のベッドの上である ことが奇妙に思えるほどの現実感を伴って明晰夢は俺に圧し掛かる。だいたい 何だというのか。毎度同じパターンの夢ばかり。同じ喫茶店行って茶ァ飲んで 待ち合わせして同じやつが来て同じやつと茶ァ飲んでしゃべって途中で終わり。 だいたい誰なんだ、毎度毎度俺の夢に現れやがって。あの本田とかいうやつ。 と思ったところで俺は今自分の思考に信じられないような思いで本当に驚いた。 聞こえない聞こえないとばかり思っていたが、俺はちゃんと知っていたのだ。 本田、それが俺が知っている彼の名前だった。念のため、本当に念のためだ。 別に他意があるわけじゃない、そう確認だ。夢と現実の関連性、その研究の ためだ。俺は心理学だ脳科学だそんなものは専門外だが、誰かひとりぐらい 馬鹿馬鹿しい可能性に賭ける男がいてもいいだろう。要するに、俺はその日 朝一番に大学に行って学籍簿を調べてもらった。落し物を拾ったからとかそんな 言い訳をして。そしてひとりの人物に行き当たる。本田菊という男。学部も違うし、 学年も違う。知ってそうなやつに呼び出してもらえば気が抜けるほど簡単に夢の 男に再会できた。ああアーサーさん、なんて向こうはなんでもない顔で、むしろ 待っていたかのようだ。少し歩きますけどいい店を知ってるんです、お茶でも いかがですか?という誘いに乗ってみれば俺を迎えたのはあの緑の喫茶店だ。 窓際の席に座ると一輪、咲いたばかりの赤い薔薇が見える。夫人が運んできた 今日のケーキは薔薇のジャムがアクセントのチーズケーキのようだ。紅茶も ケーキも夢に違わず素晴らしい。本田という名の彼が同じまなざしで聞いた。 「…それで、あのとき何を言いかけてたんです?」 夢とは不要な記憶を捨てる、あるいは必要な記憶を反芻するための脳の機能 のひとつだそうだ。時に願望や、置かれた状況・心境なども反映されるという。 あれは、そのどれでもなかったらしい。 |