「 甘美なる泥沼を往く 」



 YURIと書いてユリともユーリとも呼ばれる人物は主に性別不明を売りにした静止画専門の被写体
である。もしユリであれば花の名を想起させる女性の名前のようであり、ユーリであればスラヴ系に
多い男性の名前だ。どっちつかずにしているのは事務所が意図的に正式な呼び名を決めていない
せいであり、狙いは前述のとおりだ。名前ならどう呼んでも構わない、何故なら返事をすることはない
ので。というのも戦略のひとつ。彼/彼女は言葉を発しないらしい。
 とはいえ、骨格を見れば性別など一目瞭然だろうと多くの人々が思うようにレイヴンも半ば馬鹿に
していたひとりだったのだが、実際目の当たりにしてみると女性にしては背丈があり、男性にしては
どこもかしこも細く、女性にしては筋張った手指をしていて、男性にしては少女めいた顔立ちがひどく
違和感を残し、結果まんまと策略にハマったレイヴンである。
 気がつけば常に頭の中に存在する状態だ。カメラマンとしての特権で本当のところはどうなの?と
尋ねてみれば低い声でこのとおり男だよ、と喉仏と平たい胸を晒してくださる。しかし、女性にだって
このぐらいのまな板は珍しくないわけで、むしろ証拠を見せつけられてから事務所の困惑が透けて
見えた。要するに通常の男性モデルとして売り出すには何かが不足し、もしくは何かが余り、苦肉の
策として性別不明としたのだろう。それが何なのか、レイヴンにもうまく表現できないながら、過剰な
色気かも?とぼんやりと思ったりする。なので今回はそういう路線でいこうと構想を練っていく。
 今回のお仕事は花の天然成分を使用したリネン用の香料の宣伝ポスターだ。シーツなんか清潔に
してりゃそれでいいんじゃないの?なんて人間が担当するにはもったいない高級品に極上の被写体
である。マーガレットは初夏の明るい陽射しのもと、洗い立てのリネンを庭の物干し竿にパンパンと
皺なく広げる無邪気な微笑み。金木犀は真冬の凍える早朝、まだ眠っていたいとぐずる子供のような
寝ぼけ眼。薔薇は何らかの激しい運動により汗で湿る肌から濃厚に匂い立つような熱帯夜、乱雑に
シーツを手繰り寄せては爪を立て、何かを堪える険しい表情。こんなかんじでどないでしょと、まずは
クライアントにお伺いを立て、OKが出たらば今度は事務所の許可を得る。何しろイメージに合わない
お仕事は途中でもキャンセルありが彼と契約する条件のひとつなもので。晴れて許可を得、本人に
伝えるとマーガレットと金木犀はまあいいとして、何だこの薔薇のコンセプトは、などとご不満そうだ。
そりゃシーツの上でする運動といえばひとつですよね、ええ。
 しかしまあそこらへんはプロだ。スタンバイまで不満たらたらな顔だったのがカメラを構えるや否や
がらりと空気を変え、レイヴンの望んだとおりの表情を作り出す。は、と吐息ひとつ聞こえただけでも
影響は甚大だった。若い男性スタッフが前屈みがちになる。実際、お仕事中ですよと注意する余裕も
ないレイヴンだ。下腹部にやたらと熱が溜まるのがわかる。汗のようなものは霧吹き、いかがわしい
雰囲気を醸し出す暗い赤を帯びた間接照明は計算尽く、映らない部分は衣服をきちんと身につけて
いるのに、なんでこうもホンモノっぽく見えるんだろう。ええわかっておりますとも、全部あの被写体の
おかげです。
 画面越しに自分が苦痛や快楽を与えているかのような錯覚を覚えるだろう一瞬を切り取り、提出。
程なくそれらは各種メディアに掲載される運びとなる。発売からひと月ちょい、特に薔薇の香りの売り
上げがすごいとかなんとか。が、当の本人は至って無関心。へえそうなのと千といくらで食べ放題の
安い甘味を召し上がってなさる。多少の自覚はあるようで少しの変装はしていたが。
 俺、奨学金で学校行ってるから短時間で稼げる仕事がしたかったんだよな。とはレイヴンの苦手な
甘い甘い香りを撒き散らす彼の発言だ。カップル料金のほうが安いのだと付き添いを条件にデートを
勝ち取ったらこのザマだ。モデルなんて微塵も向いているとは思わないけど、金の入りはいいだろ?
と言われたら否定は出来ない。何の学校行ってるのと尋ねれば意外も意外、調理師学校だそうな。
特になりたいもんもなかったらとりあえず手に職つけるべきだろと若者の夢見がちな将来像ではなく
とても現実的なご意見だった。
 やりたいこととか、なりたいものとかないの?リットル単位のブラックコーヒーに救済を求めながら、
思い切ってプライベートに踏み込んでみる。なりたいなれないの前に、学もないしコネもないしなあ。
なんとも無味乾燥な返答だ。彼は施設育ちで両親の顔も知らないという。勉強は得意でなく、高校を
卒業するのもやっとだったほど。今の状況が夢みたいに思えるよと原価にしたらいくらもしない安い
甘味を満面の笑顔で突く。
「ま、これが分相応のご褒美ってやつ!」
 皮肉っぽい笑みやら、自嘲めいた笑みやら、そんな顔もできるのかというほどの素顔の数々。神が
与え給うたに違いない理想の被写体はちょっとばかり見目が良いことを除けば人並みの幸せを願い
現実を足掻く、地に足をつけたごく普通の青年だった。気づけば素顔の彼だけがレイヴンの思考を
占めている。これを恋と呼ばずしてなんと呼ぼう。
「あのさ、もしおっさんのこと嫌いじゃなかったら、ほんとの名前教えて」
 きっちり割り勘の会計を済ませてじゃあなと手をひらひら振ってあっさり去ろうとする腕を捕まえて、
そんな風に縋った中年男をどう思うかなんて考える暇などなく、本当にみっともないと自覚しながら
それでも聞かないと気が済まない。ユーリ、だよ。彼は意味深な笑みを浮かべている。あっと思った
ときにはもう手遅れ。口の端っこに触れるだけのキスをして、またなおっさんと長い黒髪を翻して人
通りの多い駅のほうへ消えていく。その残り香は花でも砂糖菓子でもなく、正体不明のいいにおいが
した。





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