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幸いにもその朝の体温は微熱程度でわざわざルートヴィッヒに診せるほどでは なかった。しかし大事に越したことはない。「今日は手伝い行かなくていいから 寝てな」と言い聞かせると菊はどこかつまらないといった表情を浮かべながらも わかりましたとおとなしく頷いた。代わりに昨日仕事帰りに立ち寄った古本屋で 見つけたちょうど菊ぐらいの子供が読むのにぴったりな古ぼけた児童書を与えて 「それ読んでひとりでいい子にしてられるな?」と顔を覗き込むと「すみません」と 伏し目がちに受け取った。大切そうに本を抱える様子を見て、フランシスは菊の まっすぐな髪をぐちゃぐちゃに掻き乱し、呆気に取られた目がぽかんと見上げた ところに「そういうときは"ありがとう"でしょ?」とウインクを送る。菊はどうしたら いいかわからないような仕草でくちびるを噛み、フランシスと本を交互に視線を 向けてん?どうかした?と笑うフランシスに「ありがとう、ございます」と不器用に 笑みを作った。まだぎこちない笑い方にいつか自然な笑顔が出てくるようにして やりたいとフランシスは心中で思う。きちんと礼が言えたことをひとしきり褒めた あと、栄養満点のスープ作っておいたから食欲なくてもこれだけは食っておけよ と言い置いて仕事に出る。帰宅後はひとり分だけ減っていた鍋にいい子だなと 再びがしがし頭を撫でてやると乏しかった菊の表情には照れ笑いというものが 加わっていた。そうして日々の合間にフランシスは準備を進め、ルートヴィッヒや ローデリヒにも相談してこの町を出ることにした。こんな町にいては菊のためにも 自分のためにもならない。特に菊にはもっと明るい陽射しの差すほうへ進ませて やりたかった。多少ゴミも落ちているだろうがそこにはゴミを捨てるべきゴミ箱が あり、吐瀉物は即座に片付けられて、道端で孤独に死んでいる人間もいない。 本来人間の住む町の在るべき姿をした町だ。もちろん菊が勉強も出来る学校も ある。菊は当初その話を聞かされてまたひとりで放り出されるのかと涙が出そう だった。けれどフランシスが目の前で少ない荷物をトランクに詰めていくので心底 ほっとした。この旅立ちはフランシスも一緒なのだ。そうだ、あの夜フランシスは 一緒にいようと言ってくれた。菊は与えられたばかりのか自分のかばんに何を 詰めたらいいかわからず、フランシスがトランクに詰める物を見ていた。元々物の 多くない家だったが服や写真ぐらいしか持っていく気がないようだ。だから菊も 最低限、買ってもらった服や本、レストランの働き口が決まって初めて留守番を する日、寂しくないようにと置いていったぬいぐるみを詰める。それでかばんは いっぱいだ。支度が終わってふたりでルートヴィッヒとローデリヒに別れの挨拶を することにした。ルートヴィッヒの診療所はいつも人で賑わっていたのにこの日は 静かだ。どうやら非認可の診療所を畳むことにしたらしい。「正式に免許を取った からもっとマシな場所に診療所を構えようと思ったんだが、どうして行き先が一緒 なんだ」とルートヴィッヒは苦い顔でフランシスを睨みつける。菊のかかりつけは 今後もルートヴィッヒになるようだ。ローデリヒもローデリヒで業者がピアノを運び 出している最中だ。「そろそろ屋敷に戻らないと音楽活動に支障がありましてね」 と眼鏡のブリッジをくいと人差し指で正す。実家に帰るならまた行き先が一緒だ。 もし楽譜の読み方を習いたくなったら訪ねていけばもっと本格的な方法で教えて くれるに違いない。部屋に残った要らないものを売るとそこそこのお金に化けた。 それを元手に貸家でも借りて、狭くてもいい、ベッドひとつ置ける広ささえあれば まずはそれで充分だ。自分の腕なら食べていける、足りなければどうとでもする 覚悟もフランシスにはある。菊も何か自分に出来る仕事があればと考えていたが 許しをもらうのは難しいだろう。甲高い笛に似た音に菊は驚いて目を瞠る。初めて 見る機関車は今にも襲い掛かろうとする動物の巨体を思わせる。フランシスは 縋ってきたその手を握って大丈夫だと笑う。フランシスが言うなら大丈夫と菊は 余分な力を抜き、ただ造形美に見惚れる。その駅に名前はなかった。何せ町に 名前がない。掃き溜めの町だとか終わりの町だとか人はそれぞれ勝手に呼ぶ。 雑然とした町並みは迷路のようにごちゃごちゃして、悪臭に満ち、何を作っている のか得体の知れない工場の吐き出す違法な煙が日が暮れるまで空を曇らせる。 もうこの町に戻ってこないと思うと菊は何だか寂しくなった。「こんな町でも名残 惜しいのか」走り出す前の窓から身を乗り出して眺めている背に揶揄するような フランシスの声がする。こんな町でも。確かに親に捨てられた町だ。希望を失った 町だ。絶望を知った町だ。だけどまた希望を拾った。 「私、この町が嫌いじゃないです」 振り返った菊の笑顔はまるでこの町に欠けていた太陽のようだった。眩しくて、 目を焼かれてしまいそうだと目を細める。 「そうだな。俺も、嫌いじゃない」 フランシスは苦笑して答える。けれど二度と戻ってくることはない。ここは己の 太陽を失った者が地面に這いつくばって生きる町だ。フランシスはもう太陽を失う ことはない。したがって二度とこの町に逃げ込む必要もないのだ、菊がいる限り。 「ほら、危ないから席座って。煙も入ってくるから窓も閉めとこう」と手を伸ばすと 菊は「はい」と笑顔で応じた。隣に着席した菊が拠り所を探して指を握ってくる。 菊の小さな手をフランシスはきつく握り返す。ひとり残されることを何より恐れる フランシスが同じ傷を抱えるこの手を決して離したりしないだろう。 |