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もしや口が利けないのではと案じた最初よりだいぶマシになったものの、菊は あまり口数が多いほうではなかった。だから言いたいことを我慢してやいないか、 フランシスは不安になって何事もいちいち確認を取る癖がついた。だがこの夜の 菊はやけに饒舌だ。菊の口から語られたのはこれまでフランシスが知ることの なかった菊の生い立ちだった。菊が生まれはこの世の負の部分が集積された 掃き溜めのようなこの町ではなく、小さな手を罪に浸して強かに小金を稼ぐ親の ない浮浪児でもなかった。菊にはちゃんと七つの年になるまで育ててくれた親が いた。愛情のあるなしは幼すぎて菊にはよくわからなかったが、生まれてきては いけなかったのだと悟るほどには幸福ではなかった。大金の元にこそ幸福がある という町に住む菊の父はそれなりの幸福を手にした資産家だった。母はその妾で 菊を産んですぐ死んだ。義母は菊に母の分も含めて辛く当たり、実の父はそれを 知っていながら何も口を出さず正妻に子が出来ると使い捨ての玩具のように菊を 打ち捨てた。煤けた建物が並ぶ荒廃した町、ゴミと吐瀉物と人間の死体が同じ モノのように平然と路上に放置されて、暗い目をした人々が希望を見出そうにも 見上げた毒の曇天から光が差すことはない。菊はそのとき自分自身をも捨てた。 フランシスが道端で菊と出会ったのはそれから少しあとのことだ。お願いだから 振り向かないでくださいと言われてフランシスは菊の話を背中で聞いていた。もし 女から辛い身の上話を聞かされたら優しくキスをして今だけは忘れようとおそらく 安易な台詞で宥めすかして一時の快楽で紛らわせてやっただろうに、フランシス には菊に対してどうしてやるのが一番いいのかわからなかった。ただ、菊がまだ 泣いているなら好きなだけ泣いてもいいように拭ってやりたいと何か焦燥のような ものが胸を騒がす。振り向かないでと言ったのは自尊心を金繰り捨てて得られる 安っぽい同情が何の価値もないことを知っているからなのか。こんな小さいなりで 何もかも悟りきった大人のように振る舞う菊をフランシスは悲しいと思った。しかし 同情とは違う。フランシスもまた同情を嫌う人間だったからだ。"可哀想に"。一体 何度耳にしただろうか。何の救いにもならない口先ばかりの慰めを。菊もそんな 言葉がほしいわけではないのだ。フランシスは仮初の慰めではなく、他の誰でも ない世界中でただひとり愛した彼女の優しい声がほしかった。さもなくば死神の 慈悲深い囁きを。菊は何がほしいのだろうか。亡き母の温もり?血を分けた父の 関心?それともフランシスと同じで死神が差し伸べる冷たい手だろうか。そうでは ないはずだ、ひとりにしないでと菊は言った。菊が縋ったのは母でも父でも死神 でもなくフランシスだ。そうしてフランシスは気づく。失ったものはどんなに嘆いて どんなに足掻いてどんなに求めても、同じものは二度と取り戻せないのだ。菊で さえそれをとっくに理解している。取り戻せないものにいつまでも固執していては この町のように淀み濁って、やがて腐り落ちるだけだ。必要なのは新しい希望の ために欠けたままでも自ら踏み出すことだ。失いたくないものを再び見つけたの なら、心がまだ痛んでもそうするしかない。「…俺で、いいわけ?」初めは自分が 気まぐれで起こした行動のくせに面倒事を押しつけられたと半ば被害者気取りで ひどい目に遭わせてしまった。半端に情けをかけるぐらいならあのまま放置して いたほうがどれだけ楽だったか知れない。あれから時間を重ねて少しは変わった とはいえ嫌われこそすれ好かれることなどあり得ないとフランシスは思っていた。 それでも選んでくれるのか、この小さな手は。寝巻きをぎゅっと握って「フランシス さんが、いいです」と涙を堪えた声で菊は背中に温かくて湿った肌を押しつけた。 菊の顔だ。やっぱり泣いていたのか。夜の闇みたいな黒い瞳と、少し低い鼻と、 マシュマロみたいに柔らかい頬。まったくの他人で、美しい女性でもなくて、体が 弱くて少々手間の要る、でも素直で優しく、笑うと可愛い、俺の大事な菊だった。 「そっか。んじゃ、ずっと一緒にいようか」菊の顎が背後で上下したのがわかる。 フランシスはその夜、それまで毎夜同じベッドで眠っても決して向き合うことの なかった菊を抱きかかえて眠りに就いた。温かさの中で今も色褪せない最愛の 彼女が色とりどりの花々が咲き乱れる草原を裸足で無邪気に駆け回り、花冠を 作ろうとして失敗した花びらの雨を降らせて楽しそうに笑う、そんな幸せな夢を 見た。あれはたぶん天国だったのだ、フランシスは翌朝そう思った。「…なんで 泣いてるんですか?」その横で菊も目覚めると寝巻きの袖でフランシスの目元を 拭って金色の頭を抱きこむようにしてしばらくそのまま黙っていた。菊の体温が あまりに温かいのでまた熱を出しているのか、熱を測って、熱があるようならまた ルートヴィッヒのところに連れて行ってなどと考えながら、もう少しだけこの希望に 甘えていたいと切に願った。 |