またあんなことが起こるようでは命がいくつあっても足りない、それをいちいち
助けなきゃならん医者の身にもなってみろとフランシスが退院間近の菊を再び
預かると言い出したとき、ルートヴィッヒは大いに反対した。血を吐いて再入院
した菊の病状は最初の状態よりも重く、快復には二ヶ月を要した。何故病気の
子供をこんな男に託してしまったのだろうと医師としてルートヴィッヒの後悔は
大きい。自分が悪いのだとフランシスをかばう菊に対して憐憫と同情と負い目の
ようなものを感じていた。またフランシスに預けて同じことを繰り返すぐらいなら
自分が引き取ったほうがいいとさえ思う。しかしこの二ヶ月、フランシスの変貌は
ルートヴィッヒも認めざるを得なかった。ナンパの片手間の収入では菊を養って
いくことは出来ないとレストランで働き始めたのだ。フランシスの本職はコックだ。
最愛の女性の死によってすべてに絶望し、この町に流れてくるまで大きな街の
一流レストランで慣らした腕は貧相だったレストランを客足が絶えることのない
評判の店に変えた。食が細くてすぐに残してしまう菊も暇を見つけて見舞いに
来るフランシスが差し入れたデザートだけはきちんと食べる。以前の菊は感情や
表情が完全に死んだ子供だった。けれど少しずつ、フランシスの変化と同調する
ように生きた感情と表情を見せるようになっていた。「これはなんという食べ物
ですか?」「これフランシスさんが作ったんですか?」「わざわざ私のために?」
「ありがとうございます」好奇心と戸惑いと喜び。それらを乗せたいくつもの表情。
言葉数も増え、不器用ながらも確実に子供らしさを取り戻していっているように
見えた。それがフランシスの影響ならば菊を任せてもよいのではないかとも思う。
ルートヴィッヒは二つの選択に頭を悩ませていた。するとフランシスは両手両膝を
地面について頭を下げたのだ。「頼む、菊を俺に引き取らせてくれ!」それは長い
付き合いの中で随分と久方ぶりに見る、フランシスの真剣な顔だった。咳き込む
菊に声を掛けようとしたあの夜から、フランシスにとって死に場所を求めるような
菊は自分の半身にも等しかった。何が菊から未来や希望を奪ったにせよ、まだ
見たことのない満面の笑顔を取り戻す責任があるとフランシスは思った。菊を
通してフランシスはこれまでの自分がどれだけ亡き最愛の人を悲しませている
のか気づかされたのだ。酒や女に耽り、未来も希望もなく死ぬのを待っている
だけの生ける屍。心優しい彼女はきっと自分が死んだことを悔やみ、そのせいで
愛する男が変わってしまったことを嘆いて天国で泣いているに違いない。彼女の
ためにも菊だけはこの手で暗闇のどん底から引き揚げなければならない、それが
せめてもの償いになると思ったのだった。そうしてフランシスの体から酒や煙草、
女物の香水の臭いが絶えた。ルートヴィッヒは最終的な決断はひとまず先送りに
してもう一度だけ菊を預けることにした。それで何かあれば自分が引き取るか、
菊が希望するならこの町の外、もっとまともな孤児院まで送ってやってもいいと
考えていた。だが心配とは裏腹にフランシスは菊の体調管理を怠ることはなく、
週に一度はルートヴィッヒに具合を診せに来る念の入れようだ。おかげで菊の
体調は健康そのものだ。寝床もソファからフランシスのベッドに移ったらしい。
ルートヴィッヒがひと睨みすると「何もしてないって!」と必死で無実をアピール
していた。「誰かと一緒に眠るって、あったかいものなんですね」とつぶやいた
声には不穏な気配がなかったとはいえ油断ならない。一方でその言葉は幼い
菊がどんな生活を送ってきたのか深く考え込ませるものでもあった。それから
特に問題らしい問題もなく日々は過ぎ、ただ留守番しているだけでは申し訳ない
からと菊はフランシスの手伝いを願い出た。レストランは朝の仕込みや昼夜の
忙しい時間帯と、かなりの体力が必要で何より客は皆この町の住人だ。決して
善人ばかりとは言えない。そんな場所に菊を連れてくるわけにはいかなかった。
そこでフランシスは上の階に住む変わり者の音楽家に菊を小間使いとして預ける
ことにした。以前雇っていた小間使いは大人になってひとり立ちして、今ちょうど
不便していると聞いていたのだ。少々物言いはきついが古馴染みで悪いやつ
ではないし、事のついでに菊に読み書きや算式も教えてくれるだろう。事情を
話せばそういうことならしょうがないですねとローデリヒは承諾してくれた。体を
冷やさないよう水仕事などはなるだけさせないようにしたがそれを補って余りある
ほど菊はよく働き、よく学ぶ子供だったのでローデリヒは駄賃を弾んだ。それを
菊はすべてフランシスに渡してしまう。菓子のひとつも欲しがるでもなく、自分の
ために使われたお金を返すように。フランシスにはそれが少し切なかった。だから
その金は使わずこっそり貯めておいた。いつか菊が自分の意思でこの町を出て
いくとき渡してあげられるように。やがて菊も年を重ね、上の学校に入る年頃に
なった。ローデリヒからは菊は賢い子供だから可能なら学校に入れてやっては
どうかと助言があり、フランシスは悩んだ。この町に住む子供といえば大半が
浮浪児で学校などない。当初思ったようにこんな町ではなく、もっと大きな町の
上の学校にも行かせてくれるような養い親が見つかる孤児院に送ってやれば
それも可能かもしれない。愛情に満ちた家庭、ちゃんとした教育、どれもこれも
菊のためにプラスになりこそすれ、マイナス要素など考えられない。出来るなら
この手で菊の笑顔を取り戻してやりたいと思っていたが菊のためを思えば仕方が
ない。フランシスが決断した夜、聡い菊は別れを悟ったのだろう。眠ったはずの
菊は背を向けたフランシスのシャツにしがみついてきた。「…ひとりに、しないで
ください…」涙混じりの声だった。フランシスははっとする。菊の満面の笑顔を
今まで見たことがない。そうだ、それを見たいと望んでいた。どんなに嬉しくても
楽しくても、菊はいつも困ったようにほんのわずかだけ笑う。それと同様に、菊が
泣いている顔も見たことがなかったことにたった今気がついた。





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