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死の淵の手前まで悪化していた肺の病が自宅療養で構わないレベルに快復 するとここは託児所じゃないんだと子供の身柄は再びフランシスの手元に戻って きた。どこもかしこも汚かった子供はルートヴィッヒが風呂に入れてやったらしく すっかり小奇麗になって、それなりに整った容姿であることをフランシスはこの 段階になってようやく知った。石鹸のいい匂いもする。ボロ布同然だった衣服も 見かねたのだろう真新しい子供服も買い与えられ、あの日あの路地裏で死神と 手を繋ぎ、朦朧とした意識で寝転がっていた子供が今では別人のようになった。 医者というものは世話焼きでなければやっていられないのかもしれない。ただ 深い闇色の瞳を覗き込めばいまだ生気は感じられない。ルートヴィッヒの力を 以ってしても死にかけていた、あるいはとうに死んだ心までは蘇生も不可能の ようだった。そもそも何がこんな幼い子供の生きる望みを奪ったのかフランシスは 知りもしないのだ。仕方なくしばらく住まわせてやることにしたフランシスはまず 最初に子供の名前を聞いた。ベッド代わりのソファに小さく収まり、おとなしく横に なっている子供は頻繁に咳をしながら「菊」とだけ名乗った。姓は言わなかった。 初めからないとすれば、つまりこの子供は拾う前、悪い想像をした通りの普段は 人様の財布からずる賢い手段でおこぼれをもらって生きている浮浪児で間違い ない。しかし彼らは親がいない分だけ仲間意識が強いはずだった。それがあんな 風に、仲間にも神様にも見捨てられたようにひとりで死に掛けていたのはどこか 違和感がある。それに、あの瞳は自分から何もかもを捨てたような絶望の色だ。 何が子供を、菊をそうさせたのか。フランシスは興味を抱かないでもなかったが 所詮は他人事だ。好奇心で余計なことに首を突っ込んで面倒を背負い込むのは 趣味じゃない。ルートヴィッヒがもう大丈夫と言えばここよりいくらかマシな別の 町の孤児院にでも送り届けてやればどうせこの件とはオサラバだ。そんなことを 考えながら固いパンと温いミルクと透けるほど薄いハム、自分だったら食べる 気もしない固い茹で卵と少量の生野菜、気が向けばインスタントのスープを毎食 与え、食事が済めんだらきっちり指導を受けた通りの薬を飲むよう言いつけて、 あとは会話も特にないままフランシスは菊を放置していた。何しろフランシスは 忙しい。食事の用意をしてやるだけ親切だろうと思っているぐらいだ。菊も不満は 言わないし、栄養的にも問題はないはずだ。フランシスは夕方から明け方まで 近所のバーで働いている。女を引っ掛けるには絶好の場所だ。カウンター席の 端っこで女がひとりカクテルグラスの淵を撫でているときなどチャンス以外の何物 でもない。男に振られたか、振ったか、はたまた何か別の理由があるのか。女の 抱える事情と性格を見抜き、それに相応しい男を演じてやればいとも容易く女は 一夜の恋人となる。菊を住まわせてやってからもフランシスのルーチンワークは 休みなしだ。菊は見たとこ六、七歳。きちんとした町のきちんとした両親のいる 子供なら性教育を受けるには少し早い年頃だが、この町の浮浪児ならば壁の 向こうから聞こえるベッドの軋みや甘い吐息や言葉が何を示しているのか大体の 見当はつくだろう。何よりもこれ以上見知らぬ子供に手間をかけるのは御免だと フランシスはそのための場所を他に選んだりせず自宅で事に及ぶ。そのあいだ 菊は完全に放置されている。これに対しても菊は何も言わない。菊があまりに 口を利かないので多少は気がかりなのだが、次に菊の薬を受け取りに行った折 ルートヴィッヒに確認を取ってみたが知能や言語機能に異常があるわけではなく ただ極端に無口なようだと医者もそう言っている。だから気にかけてやる必要は ないのだ。不満があれば言えばいい。大体命の恩人なんだからちょっとの騒音 ぐらい我慢するのが道理だろう。そうして診療所から移ってひと月余り経った頃 だろうか。今宵もお楽しみの時間を過ごしているのに、今日に限ってやたら隣が うるさい。菊の仕業だ。嫌がらせのようにやたら咳をする菊にフランシスは腹が 立って仕方がない。「集中出来ねえだろ!静かにしてろ!」と怒鳴りつけてドアを 勢いよく閉める。あとはどうしていたのか知らないが隣が静かになった。そのまま フランシスはお楽しみを続行し、朝になると女も帰っていった。昼も過ぎてやっと 目が覚めたフランシスは、何故昨夜だけあんなにもうるさく咳き込んでいたのか ふと気になってソファに横たわる菊を見る。菊の顔は真っ赤だ。額に手を当てると 驚くほど熱を持っている。さらに枕代わりのタオルにはかなりの血が滲んでいた。 菊は咳が出るたびタオルを噛んで音を殺し、血を吐くほどの苦しみをずっと耐えて いたのだった。フランシスは慌てて毛布で菊を包んで抱きかかえると診療所に 急いだ。「何で早く言わなかったんだよ!」と道すがらフランシスが激昂すると 咳混じりに「迷惑を、かけたくなかったので」と答えたきり言葉を発するのも辛い のか黙り込み、全身を強張らせ激しく咳き込むかひゅうひゅうと喉を鳴らすのみ だった。ルートヴィッヒに菊を診せた途端、他の患者が身を竦ませてしまうほどの 大きな声でこの大馬鹿者!という罵声がフランシスの鼓膜を突き破らんばかりに 飛び出した。菊はどうも熱を出しやすく、それがすぐ肺や気管に来てしまうらしい。 だから朝晩こまめに体温を測って、熱があったり少しでも体調に変化があれば すぐに連れて来いと身柄を預かる際、フランシスの部屋にはありそうにもない 体温計を渡されると共にきつく注意を受けていたのをフランシスは今の今まで 忘れていたのだ。菊はもう一度入院することになり、さすがのフランシスも今度 ばかりは反省した。咳が気になりはじめたのはたぶん一週間以上前のことだ。 その頃から菊は高熱に苦しみながらも迷惑をかけたくない一心で何も言わずに 我慢していたのだろう。出来合いの食べ物を犬猫の餌か何かのように置いていく だけでろくに声もかけてくれない男に菊は恩義を感じて、血反吐を吐いても咳の 音を必死で押し殺していたのか。死なせてくれとあの死んだ目で訴えかけていた 菊をどうしても許せずに勝手に救ったのは自分だ。逆に恨まれても仕方がない。 自分の勝手で一度は拾った命をフランシスは危うく自分から捨てるところだった。 底の底まで堕ちたと思ったがまだ底があったとは、最低な男はどこまでも最低 だと苦く己を非難するしかなかった。フランシスの自堕落な生活はその日を境に 少しだけ変わった。女遊びは止み、その時間は病床の菊を見舞うようになった。 薬が効いて咳も落ち着き、うとうと眠る菊の黒い絹糸のような髪を梳いていると 昔のことを思い出す。どんなに女遊びをしていてもあれほど愛することの出来る 女性はフランシスにとって生涯ただひとりだ。彼女と結婚して、幸せな毎日を 送りたかった。もし彼女が生きていたら子供のひとりやふたりいたかもしれない。 ちょうど菊ぐらいの年で、フランシスに似たならマセてどうしようもないクソガキで、 彼女に似たなら美人だがお転婆で放っておけなくてフランシスを困らせるのだ。 そんな温かくて幸せな夢想を久々にフランシスは脳裏に描いていた。そのとき 菊がまた咳き込み出して、苦しげに小さい体を折り曲げる。フランシスは背中を さすってやり、大丈夫、大丈夫だ、大丈夫だからと何が大丈夫なのか自分でも 意味のわからぬまま声をかけてやる。咳が収まって菊がまた静かに眠りに就くと フランシスはそれが頭に引っかかってしょうがなくなった。自分は一体、菊に何を 言おうとしていたのか。手触りのいい菊の髪を撫でながら深く考え、朝方になって ハッとする。フランシスはさっき、無意識にこう言おうとしたのだった。"大丈夫だ、 もう、ひとりにしないから"。それはフランシスこそが今は亡き彼女に、あるいは 自分を本当に愛してくれる誰かに言ってもらいたかった言葉そのものだった。 |