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最愛の恋人を事故で失い、実を結ぶ前に枯れ果て空洞のあいた心と雨粒を 落とす寸前の灰色の空のような曇った眼を持つフランシスにとって残りの人生 とは無駄なロスタイムのような時間であり、町は人々が無意味に群れて身を 寄せ合う場所で、彼らの生み出すものはすべて無価値のごみ屑同然であった。 確かにこの町は荒れている。ドブのような悪臭が常に漂い、女は真昼間から 手軽な愛を売り、男は酒を飲むか不毛な賭けに興じている。もしかするとそこの 酔っ払いに見える道端で寝ている人間は死んでいるかもしれない。もしそうなら すでに金目のものはすでに奪われたあとだろう。腐敗臭が鼻をつくようになれば 嫌でも誰かが片付ける。フランシスはその面倒事を負う誰かではなかったので 数秒後にはその存在ごと忘れた。が、同日二度目の似たような状況に出会った ときはさすがに一瞬足を止めた。まだほんの子供だったからだ。避妊や堕胎を する金も余裕もない、あるいは初めからその気もない無責任な母親が赤ん坊を 産み落としそのまま捨て置くという話はゴマンとある。我が子がそのまま死ぬ 運命にあると知っていてもどうせこの町に住む者は死と隣り合わせだ。中には 奇跡的に生き延びて、この子ぐらいの年になる者もいるが確率は限りなく低い。 フランシスが昨日寝た女も、おととい寝た女も、その前に寝た女も一時は母親 だったのかもしれないがそれをわざわざ知ろうとするのはルールに反している。 フランシスは一度だけ父親になってもいいと思ったこともあったが、その感情は とうの昔に冷たい土の下で永遠の眠りについている。まともな医者も少ないこの 町で厄介な病気をうつされてはかなわないので生のセックスはしないことにして いる。だから暗く汚い路地裏に倒れ伏し、死にかけている子供は100%自分に 関わりないと言い切れる。その証拠に髪の色だって似ても似つかない。それに 最近は浮浪児の物乞いだって巧みだ。フランシスは試しにポケットの小銭を放り 投げてみた。チャリーンと金額に相応しい安っぽい金属音が路地に響く。これが 人通りの多い場所ならこんなものでもかなりの人数が注目し、最もすばしっこく、 最もプライドのない輩がそれをさらっていくだろう音だ。しかし穴の多い薄っぺらな ぼろ布に包まる子供は胸を鈍く緩慢に上下させ、弱い呼吸を繰り返すのみだ。 「…おい、まさか…本当に死にそうなのか?」フランシスはたまらず声をかけた。 別になけなしの良心が働いたわけではなく死ぬのか死なないのか、それを確認 したいだけだった。死はフランシスが忌みながらも求めてやまないものだった。 子供は返事をしない。そんな力もないと言いたげにようやっと薄く目を開き、落ち 窪んだ眼窩から生気の欠片もない真っ黒な瞳をのぞかせてフランシスを一度見、 それからゆっくり目を閉じる。本当に死神がすぐそこまで迫っているようだった。 そうしてフランシスは柄にもないことをする羽目になった。正体不明の衝動に突き 動かされて、子供を抱きかかえて近所に住む医者のもとに走ったのだ。正式な 免許は持ってはいないが、腕は確かな医者でフランシスを古くから知る男だ。 堅物で付き合いづらいが悪いやつでもない。小一時間ほどしてルートヴィッヒは 軋む木製のドアの向こうから出てきてたぶん命は取り留めた、とフランシスに 告げた。肺を病んでいて一刻を争う事態だったそうだ。問われて仕方なく子供を 拾ってきた経緯を説明すると熱でもあるのか?それとも頭を打ったのか?とひどく 驚いた顔をした。ルートヴィッヒが驚くのも無理もなかった。この町では何もかも 希望とは真逆のものばかりがまかり通る仕組みだ。見ず知らずの子供の命を 救うなどよその町では賞賛される行為かもしれないがこの町の常識からはかけ 離れている。けれど人の命を救うことを生業としているルートヴィッヒにしてみれば 賞賛に値する出来事だったらしい。それを行ったのが人柄をよく知るフランシスで あるならなおさらだ。普段は古馴染みであるフランシスにさえ茶のひとつも出ない くせに、言葉の代わりなのか薄く酸味の強い、だが本物の豆から淹れた貴重な コーヒーでもてなされ、ありがたく冷えた体を温めながらフランシスはため息を ついた。あの、まぶたから覗いた黒い瞳。街頭の明かりすら反射しない、希望の 光を映すことを放棄した深い絶望を抱く瞳。誰に語りかけるでもなくフランシスは つぶやく。「…俺には、あの目がこのまま死なせてくれって言ってるように見えた んだよな…」ルートヴィッヒは口を閉ざしたままだ。否認可でも一応は診療所だ、 よく磨かれた清潔な床に視線を落として、フランシスは今でも脳裏に焼きついて 消えないまばゆい光と幸福に満ち溢れていた頃の世界と今の暗く淀んだ世界を 比べて、自分もあの子供と似た目をしているのかもしれないとやはりため息を ついた。フランシスが変わってしまった理由も知るルートヴィッヒは無言を通す。 あの子、治ったらよその町の孤児院にでも送ってやれないか?とフランシスは 尋ねた。それは俺の仕事じゃないだろうとルートヴィッヒは答え、強い視線で もってそれをやるべき真正面の男の目を見つめる。犬猫であろうと人であろうと 拾った者が最後まで責任を負う、当然のことだ。フランシスはだからお前んとこ 来るの嫌だったんだよ…と力のない憎まれ口と共に三度目のため息をついた。 |